インディアン ス 昔 の 写真。 インディアン

インディアン

インディアン ス 昔 の 写真

彼らは東海岸の厳しい環境の中で飢えと寒さに苦しみながらも、「2万5000年以上も前から北アメリカ大陸に住み、自然と共に、伝統を守りながら平和に暮らしていた、『インディアン』と白人が呼ぶようになった黄色人種(私たち日本人と同じDNAを持つモンゴロイド系)の人々」の温かい支援に助けられながら、入植の第一歩を踏み出したのです。 白人によってインディアンと名付けられた人々は、次々と来る入植者に、アメリカでの栽培に適した食物であるジャガイモやトウモロコシの栽培方法を教え、当面の食料として分け与えたばかりかタバコの作り方までも教えてくれるなど、アメリカで生活ができるように様々な面倒を見てくれ与えてくれました。 彼らは、人を疑うことを知らなかったのです。 そればかりか、インディアンには「誰かが所有する」という意識は無く、「すべてのものは、みんなのものである」と考えて生活をしてきたため、白人に要求されたものは、何でも快く「みんなのもの」として白人に分け与えました。 この考え方は、強奪を目的として生きてきた白人に、最大の、つけ込むスキを与えてしまったのです。 イギリス政府は、アメリカを流刑地として選び、本国に居ることができなくなった人間や、犯罪者、荒くれどもを入植させていったのです。 アメリカは犯罪者の流刑地であり、入植者には善人が少なかったことと、「白人ではない人種は、すべて人間ではなく獣である」「奪い取った者が勝ちなのである」と心の底から信じ切っている白人独自の思想とキリスト教観から、まったく罪悪感なしに、先住民の人々を虐待・虐殺して土地を奪っていったのです。 それだけではなく、白人にとって「人間ではない有色人種」は獣(けだもの)と同一であり、インディアンが愛してきたバッファローともどもスポーツ・ハンティングの的として、ハンティングされ駆逐されていったのです。 ワシントンの手法は焦土作戦だったのです。 ワシントンの軍隊は、イロコイ連邦やニューイングランド全域のインディアンを「根絶やしにせよ」とのワシントンの命令を受けていました。 アメリカ独立戦争以降、豊かでタダ同然の土地を求め、白人入植者が 『マニフェスト・デスティニー』 明白なる使命 を唱え、西進するようになると、当然そこに住む数千万人とも5000万人とも1億人を超えていたともいわれた、数千の部族に分かれて自由の大地に住んでいたインディアンたち(北アメリカ大陸)は邪魔者となり、これを排除しようとする合衆国政府によるインディアンの撲滅戦争と化しました。 インディアンは住む場所を追い立てられ、奴隷としてプランテーションで酷使され、白人が持ち込んだ疫病により次々と斃(たお)れ、女は子供までもが強姦・輪姦され、逆らう者は八つ裂きにされ吊るされ虐殺され、連邦政府が信託保留する荒れ果てた土地「保留地(Reservation)」に押し込められることを強要され、移住に同意しない多くの部族は土地収奪の障害物として、謀略(ぼうりゃく)をめぐらされ、老若男女を問わず赤ちゃんに至るまでの殺戮により絶滅させられ、あるいは白人のレクレーションとしてバッファローと共にスポーツ・ハンティングのターゲットとして、気の向くままに射殺されていったのです。 インディアンは、それでも白人との平和共存を願っていたのですが、それがかなわぬ夢とはっきりと確信すると、自分たちの生存をかけ激しく抵抗するようになっていきました。 m 1872年に描かれた『アメリカの進歩』 (マニフェスト・デスティニー) m 女神の右手には書物と電信線が抱えられており、アメリカ合衆国が西部を「文明化」という名の下に征服しようとする様子を象徴している。 右側には、侵略のシンボルともいえる大陸横断鉄道が見える。 左隅には、白人入植者に追い立てられるインディアンが描かれている。 n 奴隷農場〈綿花栽培〉 m 1776年の合衆国独立宣言には、「すべての人間は平等につくられている。 創造主によって、生存、自由そして幸福の追求を含む侵すべからざる権利を与えられている」と謳われていますが、すべて白人自身のためであり、インディアンおよび黒人(奴隷)が、この「すべての人」に含まれないのは明らかでした。 インディアンが愛した自由の大地の強奪行為は激しさを増し、1803年には、ジェファーソン大統領が「我々が手を振り降ろしさえすれば粉砕されてしまうことを、インディアンは理解すべきだ」と述べたように、合衆国の国力が強まるにつれ、より強力な武器を使った「暴力」による抑圧が公然と行われるようになっていったのです。 最後まで、頑として移住を拒否し続けたチェロキー族も、ついに1838年に連邦軍によってジョージア州から追いたてられてしまいました。 1万2,000人のチェロキー族の一行は、極寒の冬空の下、5ヶ月をかけてオクラホマへの長い行程を強いられ、寒さ、飢え、病い、暴行によって8,000人もの命が失われたという「死と絶望の旅路」を、強制されたのです。 強制移住の結果、ミシシッピ以東の土地はほぼ完全に白人のものとなりました。 そして、連邦政府は移住させたインディアンに対して、「文明化」という名の、インディアンが持つ文化、伝統、歴史、生活様式の破壊を、推進していったのです。 19世紀半ばの時点で、ミシシッピ以西には、強制移住させられた部族を別にすると、判明しているだけでも、30万人近いインディアンが残存していました。 また、何千万人を虐殺したのかも、まったく判っていない。 1億人前後がアメリカとカナダで行われたホロコーストによって虐殺されたとしている文献もある。 1866年のフェッターマン大尉以下81名のせん滅や、1876年のスー族・シャイアン族連合軍によるカスター将軍大隊のせん滅など、インディアン側は輝かしい戦果をいくつも挙げ、スー族のシッティング・ブルやアパッチ族のジェロニモの名は白人を震え上がらせました。 しかし、白人側の軍事的ずる賢さ・物量的優位はやはり動かしがたかったのです。 強靭なインディアン戦士とは正面切って戦わず、迂回して戦士が居なくなった集落を襲い、白旗を持った少女を撃ち殺し、女は幼子に至るまで強姦・輪姦を繰り返し妊婦の腹を割いた。 頭皮を剥ぐついでに女たちの指を切り落として指輪を奪った。 女や子供からお年寄りまでの全員を大虐殺の上、集落のすべてを燃やし尽くすという卑怯極まりない戦い方を繰り返しました。 本土無差別爆撃や原水爆の投下である。 しかし日本の教育界は「アメリカによる正義の戦い」と称するのです。 その後、 ベトナム戦争でもアメリカの援軍に回った(飢えた野獣のごとき)韓国軍が主体となって、この悪魔のごとき卑怯で修羅な蛮行を積極的かつ大規模に行った) ジェロニモは降伏し、シッティング・ブルも保留地に閉じ込められた末に、1890年12月15日、ついに逮捕されてしまいました。 「わたしは行かない。 さあ、みんな立ち上がれ。 決起するのだ!」 こう叫んだ瞬間、ブルは、射殺されたのです。 n v 、 アメリカ合衆国やカナダの本来の国民である『インディアン』。 d m 先住民の女性たちとティーピー(テント型の住居) m m イ ンディアン、最後の大虐殺 この2週間後、第7騎兵隊は白人の不埒に武器を持って抵抗し、力尽きて降参し、無抵抗となったスー族300人以上を虐殺。 この虐殺を白人(アメリカ大陸を侵略した人)たちは「戦争」と名付けた。 戦争であれば、白人が勝手に作った法の名の元に、堂々と土地を略奪できるからである。 アメリカ軍は、降伏したインディアンから武器を没収した後に虐殺を始めたのです。 幼子や、赤ちゃんを抱いて必死に逃げる若い母子までをも無差別に射殺した。 この虐殺を白人側は「ウーンデッド・ニー戦争」と呼び、虐殺を実行した第7騎兵隊には議会勲章まで授与されている。 しかし、インディアン側ではこれを「ビッグ・フット一行に対する虐殺」と呼んでいて、インディアン戦争の象徴にもなっています。 「ついに米軍はインディアンに対する無差別虐殺を開始した。 無抵抗の病人のビッグ・フットは、間もなく、ティーピー(インディアンのテント型住居)に押し入った兵士に頭に弾を撃ち込まれて殺された」 軍は丘の上に設置した速射ホッチキス砲で無差別砲撃を加えた。 さらに新鋭のスプリングフィールド銃で幼子を抱いて逃げる女性も、馬も犬も子どもも狙い撃ちし、皆殺しにした。 100人弱の戦士たちは、没収された銃を手にするまでは素手で虐殺者たちと戦った。 イエローバードは銃をとってティーピーに立てこもり、白人を狙い撃ちした。 彼は、ティーピーに火が放たれ、全身に銃弾を浴びるまで勇敢に戦った。 銃・砲弾の降り注ぐ中、女・子供たちはそれでも3キロばかり逃げたが、負傷のためにそこで力尽き、倒れていった。 部族員のほとんどは武器を持たず、それを四方から取り囲んだアメリカ軍兵士達が銃撃した。 m d 死体は南ダコタの雪の中に横たわり暴風雪で凍りついた n x 「ホッチキス砲は一分間で50発の弾を吐き、2ポンド分の弾丸の雨を降らせた。 命あるものなら何でも手当たりしだいになぎ倒した。 この(子供に対する3キロ余りの)追跡行は、虐殺以外何ものでもない。 幼子を抱いて逃げ惑う者まで撃ち倒された。 動くものがなくなってようやく銃声が止んだ」と、兵士の一人は回想している。 また、「これまでの人生で、このときほどスプリングフィールド銃がよく出来ていると思ったことはない」と、ある白人士官が言葉を残している。 乳飲み子もたくさんいたが、米兵はこれも無差別に虐殺した。 「この幼子達が身体中に弾を受けてばらばらになって、穴の中に裸で投げ込まれるのを見たのでは、どんなに石のように冷たい心を持った人間でも、心を動かさないではいられなかった」と、埋葬隊の1人は言葉を残している。 、 g 『インディアンの大虐殺』 (ウーンデッド・ニーの谷間) スー族や馬の死体が放置され ている 、 m n 1891年1月1日、埋葬隊が派遣された。 銃座が置かれた丘の上に、ひとつだけ穴が掘られた。 彼らの遺体は一人あたり2ドルの手間賃で、民間人アルバイトによって無造作にこのひとつだけ開けられた土の中へ投げ込まれた。 (『ウンデット・ニーの虐殺』 ウィキペディアより引用) c j マンカト・スネリング砦でのスー族の一斉絞首刑 m リンカーンは、北アメリカ大陸の土地と資源の強奪を目的としたインディアン虐殺の総仕上げとして、スー族の土地をすべて取り上げただけでなく、主だった族長38人を戦犯として処刑した。 一度に38人を吊るしたのは未だに破られない世界記録である。 なお、生き残ったスー族はパイク島の強制収容所に閉じ込め、その多くを餓死させた。 この虐殺劇の終焉によってインディアンの武力抵抗は完全に鎮圧され、アメリカ合衆国は、名実ともに白人国家となったのです。 ウーンデッド・ニーの大虐殺は、これまで3世紀にも渡って繰り広げられたインディアン戦争の終わりを象徴する事件であった。 ちょうど同じころ、カナダでも、イギリス人による、インディアンからの土地の強奪が完了した。 カナダの先、アラスカは、広大なシベリアの有色人種への侵略を終えたロシアが伸長し収奪した。 (後にアメリカ合衆国に売却) m アメリカによるプロパガンダの歴史 私が子供のころ、それらの戦いは西部劇の映画でたびたび上映され、白人の幌馬車を襲うインディアンと対決する騎兵隊の活躍に、わくわくしたものです。 しかし、「正義の騎兵隊 vs 野蛮で残忍なインディアン」という図式は、実は、アメリカ人が作った白人の身勝手な「白人のみが神に作られた人間である」とした宗教観に基づく虚構だったのです。 インディアンにとっては、侵略者から自分たちの大地、愛する家族、そして生活を死守するための戦いだったのであり、実際に野蛮で残虐だったのは、白人の側だったのです。 1890年の合衆国国勢調査は、フロンティアの消滅を高らかにうたいました。 これは、北アメリカ大陸における先住民・インディアンよりの略奪が、完了したことを意味しました。 合衆国の発展と繁栄は、まさにインディアンの屍の上に、略奪をもって築かれたものでしたが、白人たちは辛うじて生き延びたインディアンに対しては、生存の条件として、インディアンであることをやめるよう要求したのです。 「インディアンの文化的抹殺こそが、文明の勝利」だと、確信されていたのです。 すべてのインディアンがその風習を持ったまま合衆国市民として認められたのは、ようやく1924年のことです。 しかし、荒涼とした狭いインディアン居留地に押し込められ、差別に苦しみ、今なお収入・学歴・生活環境などの指標では、インディアンは様々な民族集団の中で最下位に沈んでいます。 私が学校で習い、西部劇を鑑賞し、テレビで見て憧れた、白人の「フロンティア・スピリット」と、白人に襲いかかる野蛮で恐ろしいインディアンの関係は、実は、真っ逆さまだったのです。 アメリカの歴史のどこに「博愛と平等と正義」の精神があるのでしょうか? 教育とマスコミによる「繰り返し行われている、継続した教育 洗脳 による思い込み」の怖さを、感じずにはいられません。 私たちが自覚しなくてはいけないのは、とくに高学歴になるほど、何も考えさせない暗記教育が繰り返され、学校で教わったことやテレビや新聞の言うことが正しいと信じ、自分が知っている知識やマスコミ発表と異なった意見を、排除してしまう危険性です。 お勧めの書籍 侵略の世界史 清水馨八郎 祥伝社黄金文庫 裏切りの世界史清水馨八郎 祥伝社黄金文庫 アメリカ・インディアン悲史 藤永 茂 朝日選書21 お勧めのインターネット情報 ウンデット・ニーの虐殺 ウィキペディア スペインによるアメリカ大陸の植民地化 ウィキペディア n n 「正しい日本の歴史」 (目次).

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沖縄の昔の写真を探して(国際ショッピングセンター編)

インディアン ス 昔 の 写真

アメリカ大陸に人が住むようになったのはいつからでしょうか? アメリカ大陸に一番初めに住み始めた先住民族がインディアンの始まりだといわれています。 驚くべきことに、現在わかっている最後の氷河期には先住民族の文化は始まっていたことがわかっています。 コロンブスがアメリカ大陸を発見してからしばらくの間は、インディアンがどこから来たのかということは謎に包まれていました。 しかし、様々な遺跡が発掘されるにしたがって、その謎もだんだんと明らかになってきました。 インディアンの顔は私たちアジア系の民族の顔つきによく似ている場合がありますよね。 民俗学的にもインディアンは、私たちと同じアジア系の民族であることが多いとされていています。 一万年以上前の氷河期に大陸と大陸がつながっていた時や、山と山の間が凍りついていない時などに、マンモスやトナカイなどの大型動物を追ってわたっていったのではないでしょうか。 狩りに使われた道具や動物の皮などが、人々が渡ってこれたであろう氷河期の「回廊」と呼ばれる道のあちこちから発見されています。 こういったものは、アメリカの先住民族がアジアから渡ってきた証拠のひとつとして考えられますよね。 アメリカ大陸に渡ってきたばかりのインディアンの先祖は、狩りをして大型動物を食料としている狩猟民族だったといわれています。 一箇所に定住せず動物とともに移動しながら暮らしていましたが、地球の温暖化ともに大型動物は少なくなり、先住民達の暮らしも狩猟から木の実などを集める採集へ移り変わっていきました。 採集に適した場所がみつかった場合には、狩りをしながら採集をするなどしてしばらくの間同じ場所にとどまることも多くなりました。 大型動物の数がさらに減っていくと、作物を作って育てる農耕が行われるようになります。 作物を作るようになると頻繁に移動する必要がなくなるため、森・川・湖など様々な場所でインディアンの部落が生まれていきました。 こうして、だんだんと住んでいる土地の環境合わせて生活するようになり、様々な部族とそれぞれに特徴のある文化や習慣が生まれていきました。 ヨーロッパの人々がアメリカ大陸に入ってきたときには、インディアンの多くはとうもろこしやかぼちゃなどを作って生活していました。 ですから、狩りを中心とした荒っぽい民族ではなかったと思います。 海を渡ってきたヨーロッパ人と共存しようとしていたインディアンの部族も多かったのですが、ヨーロッパの人々は新しい豊かな土地を自分達のものにしようと力でインディアンを抑え込んでいきました。 そのため、インディアンの多くの部族が姿を消しましたし、白人文化を取り入れて変化していくものも多くいました。 しかし、ヨーロッパの文明と民族は、インディアンを自分達と同等に扱うことはほとんどなく、インディアンと白人の間で平和的な共存があったとしてもほんの短い間のことでした。 コロンブスがアメリカ大陸に到着してから、1500万人以上いたインディアンはアメリカ合衆国が設立された後には25万人にまで減っていました。 もともと住んでいた場所を奪われ、白人同士の土地合戦に利用されることも多かったインディアン達は、自分達の生活と住む場所を守るために何度も抵抗を試みました。 しかし、ほとんどが失敗に終わり最終的にインディアンの住む場所は、「インディアン居留地」と呼ばれる決められた土地のみになりました。 現在は、インディアンとアメリカ合衆国の間には、数々の条約や決まりが定められていて、その決まりに従って生活しています。 その中で文化や精神を守り、生活の中に白人文化を取り入れ、独自のビジネスを成功させています。 伝統的なインディアンジュエリーや伝統工芸などで観光地として居留地を発展させようと試みたり、新しいビジネスとしてインディアンかジノを作るなど、インディアンの生活の中にも様々な変化があります。 また、居留地を出て白人社会で生活するインディアンもいます。

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スヌースという「無煙タバコ」は安全か(石田雅彦)

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1492年、コロンブスによるアメリカ大陸発見。 ヨーロッパ人にとっては「発見」でしたが、そこに代々住み生活していた人びとにとっては「侵略」のはじまりでした。 〈インディアン〉(この記事では北米ネイティヴ・アメリカンを示すために〈インディアン〉の呼称を用います)たちは白人たちによる虐殺と疫病、戦争や強制移住におびやかされ、その余韻は今なお残っています。 この大地のもとの主であるアメリカ先住民たちに、白人は一体どのような政策でもって臨んできたのでしょうか?今回は〈アメリカ先住民の歴史〉をあつかいます。 コロンブス以前のアメリカ大陸と「上陸」 「アメリカ大陸発見」以前、アメリカ先住民(インディアン)の人びとはどのような生活と文化を営んできたのでしょうか?そこでは平和で、人間だけでなく自然も尊び、「すべてはみんなのもの」というある種の楽園境が広がっていました。 トウモロコシ、カボチャなど今私たちに馴染み深い食べ物も、はじめはインディアンたちが耕作していたもの。 白人たちは「黄金」を求めてこの大陸へ上陸しましたが、そこで見つけたものとは。 そしてコロンブスはどのような言葉を残しているのでしょう。 大地は、誰のものでもない インディアンたちは、トウモロコシやカボチャを栽培して食していました。 ディズニーのアニメ『ポカホンタス』で、黄金を求めてやってきた白人の航海士にインディアンの娘・ポカホンタスがトウモロコシを「金よ」と差し出すシーンは印象的ですね。 またタバコは聖なるもので、どんな儀式のときもタバコの煙で清めを行っていました。 今私たちに馴染みあるタバコ、トウガラシ、いんげん豆などはインディアンたちがもとは栽培していたものです。 さらに狩猟や採集で生活を営んでいました。 インディアンたちは「大地は誰のものでもない」と思っていました。 所有するという概念がなかった、もしくは薄かったといいます。 すべては「みんなのもの」であり、分かち合うべきものであると。 そのため、のちに白人たちと対峙したときに「土地の所有」という意味がわからずに混乱したのです。 白人たちの上陸と、認識の相違 「彼らは理想的な奴隷となるだろう」クリストファー・コロンブスはそう日記に記しています。 1492年10月、白人たちはついに「新大陸を発見」します。 はじまったのは、虐殺と弾圧の歴史でした。 コロンブスが最初の上陸でアメリカ大陸に滞在していたのは、1492年10月から翌年5月までのわずか7ヶ月。 そのあいだに繰り広げられたのは、虐殺と伝染病によるおびただしい死でした。 このとき白人たちは重大な認識のあやまちをします。 が、しかしインディアン社会は完璧な民主主義。 この認識の相違もその後のいさかいのもとの1つとなります。 虐殺、病気、奴隷化……悲惨な歴史のはじまり 武器というものを知らず、平和を愛し、西洋よりもずっと先進的な民主主義のもと平穏な日々をすごしていたインディアンたち。 しかし「文明人」「キリスト教徒」のヨーロッパ人たちは、同じ人間であるインディアンたちを動物同然に虐殺し、駆り立て、奴隷化して酷使しました。 白人たちに踏みにじられるインディアンの歴史がはじまります。 しかしこれはまだほんの序章にすぎなかったのです。 しかしヨーロッパ人たちはどのような根拠をもってこんなことをしたのでしょうか? 鍵は〈キリスト教〉。 キリスト教の教え自体は隣人愛や博愛を説く穏健なものですが、歴史の中で権力者に利用され、解釈が変わってきました。 この時代には「キリスト教徒じゃないものは、異端であり、駆逐されるべきもの」という考えだったのです。 武器と同時にアメリカ先住民をおびやかしたもの、それは〈病気〉でした。 ヨーロッパの風土病(スペイン風邪=インフルエンザなど)への抗体を持たないインディアンたちは続々と倒れていきます。 先進的な武器を持った白人たちはインディアンへの虐殺を繰り返します。 結果、人口は激減し、生き残ったインディアンたちも奴隷として売り買いされるようになりました。 「インディアン戦争」の正体 〈インディアン戦争〉とは、17世紀から18世紀末まで、インディアンたちがヨーロッパ人に対して抵抗した長い戦争のこと。 その過程で大量虐殺、民族浄化が行われました。 結果的に白人たちの戦争に巻きこまれたインディアンは力を弱めていき、その後の悲劇につながるのです。 〈フレンチ・インディアン戦争〉という単語を世界史で習いませんでしたか?実際にはフランスとイギリスの植民地争いだったわけですが、なぜこんなところで「インディアン」の単語が出てくるのでしょう? 万年戦国時代のヨーロッパは、この新大陸を誰のものにするかでモメはじめます。 はじまったのは大国・イギリスとフランスのアメリカを巡ってのガチンコバトル。 その中にインディアンも巻きこまれました。 イギリス、フランスともにインディアンの諸部族と同盟を結び、彼らを戦力として使用します。 イギリス側から「インディアンとフランスが同盟を結んでいて、それに対抗して戦った」から〈フレンチ・インディアン戦争〉と呼び習わされるようになったのです。 〈インディアン絶滅政策〉と抵抗 19世紀に入り、白人世界の横暴は極まっていきます。 インディアンのために「保留」した土地にインディアンを押しこめ、その〈インディアン居留地〉に入らないインディアンは絶滅させるという国家方針を打ち出しました。 〈インディアン絶滅政策〉です。 多くのインディアンがこの強制移住の途上で命を落としました。 しかし、ここで抵抗する英雄も登場します。 その戦いと最期とはいかなるものだったのでしょう?そして逆らうインディアンたちに、白人はどのような態度でもって臨んだのでしょうか。 チェロキー族、ナバホ族〈涙の旅路〉 ヨーロッパ人たちがみずからの国〈アメリカ合衆国〉を作るにあたって、インディアンたちをどう処理すべきか考えました。 その結果出た結論が、強制移住です。 インディアンたちは生きのびるには、白人たちの命令に従わざるをえませんでした。 特に有名なのはチェロキー族の〈涙の旅路〉です。 1万2000人であったチェロキー族は、徒歩で1000キロ以上の旅を強いられたために、到着のときにはそのうち8000人以上が亡くなりました。 また、土地を追われたナバホ族は灼熱の大地に強制移住させられます。 しかしその後、酋長の必死の交渉により帰還を許されました。 取り上げた土地が使い道のない沙漠だったことが、彼らに幸いしたのです。 しかし帰ったその土地には近隣のホピ族が住みついてしまっていました。 白人のエゴはインディアン同士での軋轢をも生んだのです。 英雄〈ジェロニモ〉の戦い やられる一方のインディアンではありませんでした。 米国インディアン史に1人の英雄が登場します。 アパッチ族の戦士・ジェロニモです。 インディアンと白人のあいだに不平等条約が次々と結ばれるなか、抵抗をした戦士でした。 アメリカとメキシコの国境近くに生まれ育った彼は、厳しい訓練を受けると同時に、アパッチ族の頭の皮に賞金を賭けるという非道な政策を打ち出す白人たちに激怒します。 頭髪を神聖なものとしてあつかうインディアンたちにとって、頭の皮を剥ぐということはすさまじく侮辱的な行為でした。 さらには、ジェロニモの家族は白人によって皆殺しにされてしまいました。 彼はインディアンを指揮してゲリラ戦と略奪を展開し、白人たちに脅威を与えます。 これは白人たちにとって受けて当然の復讐だったでしょう。 しかし最終的にジェロニモは白人側に投降、生涯捕虜としてあつかわれることとなります。 「人間動物園」において見世物にされるなどの侮辱を受けたのち、無念の死を遂げました。 BIAは数々の非道な人道的な犯罪を犯しました。 とりわけ非道だったのは、罪もない子供たちに対するものです。 親元から強制的に取り上げられ、寄宿学校、里親のもとで悲惨な境遇に置かれ、インディアンとしてのアイデンティティを殺され、社会の最下層に住むしかなくなったインディアンの子供たちの物語を、この章ではあつかいます。 悲惨な〈インディアン寄宿学校〉 魔の手は子どもたちにまでおよびます。 保留地のインディアンの子どもたちは、両親から強制的に取り上げられ〈インディアン寄宿学校〉に送りこまれました。 そこでの生活は悲惨極まりないものだったのです。 5歳から10歳までの子どもたちは、いきなり親元から引き離されて100キロ以上も離れた異郷の地で「教育」を受けます。 部族語を話せば体罰を受け、ホームシックにかかっても罰を下されます。 白人家庭で役立つような職業訓練や、白人のやるような遊びを教えこまれ、強制的にキリスト教を仕込まれて部族の宗教は禁止されました。 彼らはインディアンとしてのアイデンティティを剥奪され、そのままインディアン居留地に送り返されます。 居留地に帰ってきた若者たちは、部族語も話せず、訓練した技術を活かすような仕事も居留地にはなく、社会に出るものの行き場を失います。 というのも、インディアンである彼らは居留地から出ることを許されない存在。 結果、アルコール、薬物中毒になる若者が増加、自殺者も多く出たのです。 「ぼくたちはインディアンでも、白人でもない」 近代インディアンの子どもたちにおける、もう1つ忘れてはならない悲劇があります。 〈インディアン児童福祉法令〉。 貧困におちいっているインディアンの両親のもとから、出生前に選別された乳児を強制的に取り上げ、白人家庭へ里子に出すというものです。 やはりここでも「白人」として彼らは育てられます。 しかし見た目や血筋から受けるのは、「あいつはインディアンだ」という差別。 一方でインディアン居留地の人びとから見れば、白人世界で育った異端者です。 「インディアンでも白人でもないぼくたちは、どうすればいいんだ」里子となった彼らの多くは10代でアルコール依存症、自殺にまで至っています。 なんとこの政策は今も実行されており、現在も強制的に親から引き離され、白人のもとへ……そんな子供たちがいます。 BIAは2000年に至ってようやくこれを「犯罪行為」と認め、謝罪を行っています。 19世紀から20世紀まで、長い年月の罪を償うには遅すぎる謝罪行為でした。 権利の獲得への戦い 19世紀末、ようやくインディアンは法的に「人間」と認められます。 それまでは動物と同じくあつかわれていた彼ら。 その後、時代は20世紀へ。 第二次世界大戦においてインディアンが国家に貢献したことを背景に、インディアンたちは立ち上がります。 教育も受けず、スラム育ちの若者たちが起こした運動は、〈レッド・パワー〉と呼ばれました。 白人世界でたくましく生き延びようとするインディアンたち。 その経緯を追いましょう。 〈レッド・パワー運動〉とニクソン大統領 19世紀末、最高裁判決は画期的な判決を下します。 判決文に「インディアンは人間である」と書き加えたのです。 こうして法的に「動物」から「人間」に格上げされたインディアンたちはようやく「人権」というものを主張できる立場になりました。 総力戦で勝利を勝ち取った、20世紀の2つの大戦にはインディアンもアメリカ国民として力を貸しました。 その貢献を背景にして、インディアンたちもようやく大きく声を張り上げることができたのです。 冷戦期に入って、ようやく真剣に耳を傾ける権力者があらわれます。 リチャード・ニクソンです。 1969年から1974年までアメリカ合衆国の権力トップになった彼は、大統領になる前からインディアンたちの悲鳴に耳をかたむけてきました。 1954年から「インディアンのバスティーユ」とも呼ばれるBIAのインディアン保留地解体を命じます。 しかし彼はウォーターゲート事件で失脚。 インディアンたちは苦境に立たされることとなりました。 「唯一、インディアンにとって自由なとき」とは 1969年、全米インディアン若者会議で発言したポンカ族の青年が、このように言っています。 「我々はワインにひたすら没頭する。 なぜなら、酔いつぶれているときだけが、唯一我々インディアンが自由な時だからだ」と。 インディアンたちは今も苦しんでいます。 現在もアイデンティティを剥奪されつづけている彼らは、500年以上に渡る長い長い差別の歴史と、民族浄化や同化政策で打ちのめされ、現在も存在するインディアン居留地の中で、貧困のただ中に放りこまれています。 アルコール依存症や自殺に走る若者も多く、電気やガス、水道のない環境で育つインディアンも多いのです。 長すぎる差別の時間は、大地を尊んできた先住民からこんなにも大切なものを奪っていきました。 そして酒の酩酊の中で、自由の夢を見るのかもしれません。 日本人である私たちは純粋に、インディアンも黒人も「人間」だと言うことができます。 白人たちはときのキリスト教の方針に基づいた奇妙な考えから、彼らを「人間」と扱うことはありませんでした。 ただこの問題が人びとに多く知れ渡り、平和のうちにたがいを尊ぶ日が来ることを、いまは切に願うばかりです。

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