川田 利明 ラーメン 屋。 麺ジャラスKは大変ジャラスK!

川田利明が説く「脱サラでラーメン屋」は絶対やるな(1)ベンツ3台分が消えた(2019年12月15日)|BIGLOBEニュース

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全日本プロレスに入団 高校の先輩であった三沢光晴さんの誘いを受けて、全日本プロレスに入団します。 高校時代はレスリングで名を馳せましたが、 デビューから205連敗という不名誉な記録を作ってします。 この時、レスリングとプロレスの違いをまざまざと感じたのではないでしょうか。 その後は、海外修行も経て着実にレベルアップを果たし、レスラーとして強くなっていきました。 今は無き冬樹弘道さんとの「フットルース」は名タッグでした。 ピンチこそチャンス 当時の全日本プロレスは、エースのジャンボ鶴田さんと天龍源一郎さんの戦いが激化し、白熱していましたが、天龍源一郎さんが全日本プロレスの選手を大量に引き連れて、別団体のSWSを立ち上げてしまいます。 全日本プロレスは、存続がピンチとなってしまいますが、当時若手だった三沢光晴さんが主体となり超世代軍を結成し、怪物といわれたジャンボ鶴田に対抗すべく立ち上がります。 それに賛同したのが川田利明さんと小橋建太さんと菊池毅さんです。 そんな相手に三沢さんや川田さんたちは挑んでいったのです。 全日本プロレスが一番盛り上がっていた時代 怪物ジャンボ鶴田に超世代軍が挑むというような形式で、プロレス中継は今までに無いくらい盛り上がっていました。 その中で川田利明さんは、得意の蹴りを中心にジャンボ鶴田さんに挑みます。 ジャンボ鶴田さん曰く 「川田は無精ひげが生えている時は蹴りが重い」と言わしめるほど成長し、試合では相当苦しめる存在になってきました。 しかし結果的には勝つことは難しく、長年エースを張ってきただけある重厚感に押しつぶされ、最後はあえなく負ける事が多かったです。 後に川田さんも「あの人に勝つなんてことは考えられない」といったコメントを出しています。 当時の全日本プロレスは柔道戦のようだった 当時は、はっきりとは明言されていませんでしたが、柔道の試合の様でした。 超世代軍 大将 三沢光晴 副将 川田利明 中堅 小橋建太 先鋒 菊池毅 聖鬼軍 大将 ジャンボ鶴田 副将 田上明 次鋒 渕正信 先鋒 小川良成 このような図式が明確になっており、見ていてハラハラしたのを覚えています。 特に大将戦である 三沢光晴さん対ジャンボ鶴田さんの対戦は一気に会場が湧きました。 それにしても今でもよく覚えているのが、先鋒のジュニア戦士だった菊池毅さんの存在です。 エースなき後の全日本プロレス 全日本プロレスの社長だったジャイアント馬場さんが亡くなり、後を追うようにジャンボ鶴田さんも亡くなってしまいました。 ジャンボ鶴田さんの穴を埋めるように、聖鬼軍に川田利明さんが加入し、強さのバランスを取りました。 その後は、 三沢光晴・川田利明・田上明・小橋建太からなる全日四天王が誕生しましす。 更にその後、急成長を遂げていた秋山準が加わり「5強」時代の幕開けとなったのです。 この頃になると川田利明さんもベテランの部類になり、全日本で躍動します。 エースが不在でも選手一人一人が頑張り、修羅場を乗り越えてきました。 またしても事件が! 三沢さんが社長に就任しましたが、馬場元子さんと折り合いが悪くなり、大量の選手を連れてプロレスリングノアを立ち上げます。 全日に残ったのは、川田利明さんと渕正信さんと太陽ケアだけです。 3人しかいなくなった全日ですが、川田さんはライバルであった新日本プロレスに参戦し、当時のエースであった佐々木健介さんに 下馬評を覆しての勝利を収めます。 その後も、全日本と新日本の夢のカードが実現し、予てより希望していたライガーVS渕正信さんとの対戦も実現しました。 全日本VS新日本の戦いがきっかけとなり、全日本に武藤敬司さんや小島聡さんなどが加入し、全日本プロレスは一気に息を吹き返しました。 そんな中、川田利明さんは全日本プロレスからフリーとなり新たな道を模索し始めます。 川田利明がブルースリーの衣装!? 目を疑いました。 あの川田利明さんが、リング上でブルースリーのコスプレをして戦っているのです。 寡黙で、王道プロレスを実践してきた川田利明さんが、このような格好で戦っている姿を見たのは衝撃的でした。 全日からフリーとなってハッスルに参戦しましたが、まさかこのような姿になるとは・・・。 どの様な心境の変化があったかは、定かではありませんが、本当はこういったエンターテイメントのプロレスが好きだったのかもしれません。 ハッスルでも川田利明は強かった リング上で、お笑い芸人を交えたギャグなども披露し、 全日時代とはかけ離れたパフォーマンスを見せます。 しかし、プロレスラーのゼウスにガチンコ勝負を挑まれた際「お笑い無しで戦う」と宣言し、見事にゼウスからピンホールを奪っています。 数々の修羅場をくぐりぬけてきた川田利明は、新進気鋭の若手でも手加減する事無く、プロレスの厳しさを教えます。 何といっても川田利明とゼウスでは、 今まで戦ってきた場数が違いすぎます。 プロボクサーでもフィギュアスケーターでも引退後に復帰する人は沢山いますし、歌手でも解散後に再結成するグループは後を絶ちません。 復帰するのは本人の自由ですが、一度決めたものを覆しているようで一貫性が無いと感じる人もいます。 第二の人生は居酒屋経営 料理経験は意外と長く、高校の合宿所時代から料理はしていたといいます。 全日本プロレスの若手時代も、ちゃんこ鍋などを作っていたので料理は慣れているはずです。 居酒屋を開業するには本格的な修行が必要とあって、中華料理屋さんで半年間修業し、お店を開業しました。 その名も自身のリングネームをもじって「麺ジャラスK」です。 一回聞いたら忘れない程のインパクトです。 ラーメンも出していますが、ラーメン屋ではなく、あくまで居酒屋という事です。 これはオリエンタルラジオが司会のテレビ番組で暴露した話なのですが、その当時は居酒屋を開店して8年目だったのですが、8年間赤字続きで1度も黒字の年が無いそうです。 お店が赤字続きでも始めてしまったお店を途中で投げ出すわけにもいかず、プロレスで稼いで手に入れた愛車のベンツ3台も売り払い、居酒屋経営を続けたのでした。 いつまで経営を続けるかたずねられた時は、自身の資産が尽きるまでと話、意地でもお店を守り抜く決心をしていました。 お店を10年続けるのは至難の技 しかし、居酒屋(ラーメン屋)などの飲食店は、長年続けるのは非常に難しく、起業して1年で6割が廃業し、3年で8割、 10年後にお店が残っている確率は1割にも満たないというデータもあります。 そう考えてみると、川田利明さんのお店は紆余曲折あったにせよ、10年以上続いているという点ではお見事では無いでしょうか。 そんな川田利明さんの経営にまつわる自伝本が販売されていますので、自営で飲食業をされている方以外でも、参考になるヒントが随所に隠されているのではないでしょうか。 しくじり先生のように、失敗から学ぶという定義もありますので、ぜひ川田利明さんの「失敗から学んだ経営学」というのを学んでみて下さい。 タレントとしては、お笑い芸人を多く抱える大田プロに所属し、 たまにバラエティーでも見かけることがあります。 番組内で、お店自慢の唐揚げをとんねるずの二人に試食してもらったところ、二人して「味は普通」と答えていました。 未だに影響力があるお二人の発言だけに、お店の売り上げに影響しなければいいのですが・・・。 その後に自分で唐揚げを食べて「美味しい」と発言していました。 川田利明さんは入れ歯? 川田利明さんの現在は50歳も過ぎて、やはり歳をとったなという印象です。 現役時代は激戦からか、上の前歯が無く実況アナウンサーから「ガメラ」と呼ばれていました。 現在は歯があるので、間違いなく 入れ歯を付けているのでしょう。 それにしても当時の全日本の戦いはすさまじく、小橋建太や田上明、三沢光晴などは全員歯はボロボロだったはずです。 田上明さんも試合中に三沢光晴さんのエルボーを食らい、口から白いものが飛んだと思ったら試合後に「また差し歯が飛んだよ」とため息を漏らしていました。 現在は激やせ 現役時代から20キロ以上やせてしまった川田利明さん。 見るからに首回りがほっそりしています。 年齢もありますが、この激やせしてしまった状態ではリング復帰というのは難しいはずです。 いくら気持ちがあっても体が言う事を聞きません。 ジャイアント馬場さんがやっていた前座の面白プロレスなら復帰しても支障はないのですが、 絶対にやらないでしょう。 襟足の秘密 川田利明さんは現役時代ずっと襟足を伸ばしていました。 その謎については未だに語っていませんが酒を飲んで酔っ払ってしまったら話してしまうかもという事です。 ひょっとすると一生語らないかもしれません。 川田利明グッズ 川田利明ファンの為に関連グッズをご紹介致します。 胸を熱くしたあの感動が今よみがえります。 川田利明フィギュア.

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川田利明の現在は嫁と一緒にラーメン屋を経営!なぜラーメン屋に転身?

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私は一時期小規模ですが外食チェーンの本部で働いていたことがあります。 なのでそれなりに外食の難しさを知っているつもりです。 店舗を経営するのにどれくらいのコストがかかって、どんなふうに利益を積み上げて、その結果どれくらいで採算がとれるのか。 当たり前ですけど外食の利益って本当に1食で得られる小さな利ざやの積み上げなんです。 ですから私には想像がつきます、個人で飲食店を10年続けることがどれほど大変か。 --- 私にとって全日本プロレスの川田利明は特別な選手です。 観戦して泣くほど感動したのは一回や二回ではありません。 特に92年の年間最高試合を獲得したハンセンとの三冠ヘビー級選手権は忘れられません。 パワーでも体格でも圧倒的に劣る川田が真正面からハンセンに挑んで行く姿は今でも鮮明に瞼の奥深く刻まれています。 三沢、田上、小橋らと築き上げた全日本プロレスの黄金期には何度となく揺れる武道館(比喩ではなく、興奮したファンが床を踏み鳴らすために実際に揺れるんです!)で興奮の時をすごさせて貰いました。 その敬愛するプロレスラー川田利明がラーメン屋を開くと聞いたときには、嫌な予感しかしませんでした。 私は以前同じくプロレスラー永源遙が経営する「永源ラーメン」に足を運んだことがありますが、不味いラーメン、やる気の感じられない接客、不潔な店内、そして本人はいない、と褒めるところがひとつもない酷い店でした。 今思えば典型的な名前貸しの店だったのだと思います。 ところが蓋を開けてみれば店主の川田さんはちゃんと自分でラーメンを作ってるし、ラーメンの評判もいい。 気がつけば自分の外食時代の経験ではとても不利な条件だと思われた場所でも淡々と営業を続けている。 元々川田利明という人は要所要所でわざわざとんでもない試練の道を選択する人だけど、一方でいつも粘り強く取り組んでいつの間にか克服してしまう人という印象もあったので、きっとラーメン屋もなんだかんだで器用にこなしてしまうんだなあ、大したものだなあと遠巻きにですが感心していました。 ですが先ごろ出版されたを読むと、まあやはりというか、苦労したんですねえ、当たり前ですが。 昨年AbemaTVの「偉大なる創業者バカ一代」という番組に川田さんがゲスト出演された回を見て、普通に店舗経営者の頭になっていて驚きました。 これはその時の私のツイートです。 でもこの本を読んで納得しました。 これだけ苦労していれば当然です。 私の少ない外食業界での経験に照らしあわせても、やっちゃいけないことのオンパレードでなんですから。 しかし川田さんの凄い所は、それらの問題を自分のやり方で解決しているところです。 本書では川田さんがラーメン店経営の様々な問題点をまとめ、その解決法を開陳している もちろん我慢して凌ぎ切っただけという逸話も多数存在しますが… のですが、その解決法は川田さんのやり方であって他の人が同じやり方でうまく行くとは思えません。 むしろプロレスラーの体力と、知名度、資金力、ちゃんこを作り続けた経験があって初めて乗り越えられたことがよくわかります。 体力でも知名度でも劣る一般人で、しかも資金も経験も十分でないのならば到底マネはできないのです。 川田さんはそれをわかっているからこそ読者に「ラーメン屋にはなるな」と説いています。 私も一度だけ麺ジャラスKにラーメンを食べに行ったことがあります。 ランチタイムの開店と同時に店内に入ると普通に川田さんが厨房に入ってました 畏れ多くて声もかけられず!。 注意書きがこれでもかと貼られた券売機、手作り感に満ちた店内の調度品、それに対して不釣り合いなほど完成度の高いカレー白湯ラ〜メン。 今本書を読み終わってみれば、川田さんの独自の営業努力がそのまま強い個性となって現れているお店でした。 店を訪れれば、本書の内容が大げさでもなんでもないことがわかります。 ラーメン屋を個人で立ち上げることを考えて本書を手にされた方は、一度麺ジャラスKに足を運んでみるべきだと思います。 この程度のお店か、と思われるかもしれない。 でもその程度のお店を経営するだけで、これだけの苦労が必要だということを本書は教えてくれるはずです。 正式な本のタイトルは、 "開業から3年以内に8割が潰れるラーメン屋を失敗を重ねながら10年も続けてきたプロレスラーが伝える「してはいけない」逆説ビジネス学" たかが10年、されど10年です。

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川田利明が説く「脱サラでラーメン屋」は絶対やるな(2)赤字の店を続ける理由

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ジャイアント馬場が率いた全日本プロレスで、四天王の一人として観客を熱狂させた川田利明(56)。 数々の名勝負を残した男は、舞台を「リング」から「ラーメン屋」に変え、激闘の日々を送る。 新しい店が1年に3000軒オープンして、4割が1年以内に閉店。 8割は3年以内に廃業に追いやられているんです」 川田はかつて、三沢光晴や小橋建太、スタン・ハンセンらと名勝負を繰り広げ、日本マット界の中軸にいた。 そして10年6月、東京・世田谷区に「麺ジャラスK」というラーメン屋をオープンさせる。 有名人にありがちな名義貸しではなく、仕込みから調理まで一切を自分の手で行っている。 ただし、経営が軌道に乗っているわけではない。 いや、川田は偽りのない現状を口にする。 「これまで開業資金だけでなく、毎月の家賃や機材のリース料などの支払いで、ベンツ3台分をスープに溶かしたんです。 ベンツもいちばん高いのはGクラスのAMGでしたし、それ以外にも生命保険の解約など、資産のほとんどをつぎ込んでいる」 そんな経験を川田は、脱サラしてラーメン屋を開業したい者への戒めとして著書にした。 タイトルは少々長くなるが「開業から3年以内に8割が潰れるラーメン屋を失敗を重ねながら10年も続けてきたプロレスラーが伝える『してはいけない』逆説ビジネス学」(ワニブックス刊)というものだ。 そもそも、武骨なレスラーだった川田が、なぜ畑違いの職業を選んだのか。 「三沢さんと同じ足利工業高校のレスリング部に入って、寮の食事はずっと俺が作っていたんです。 卒業後に全日本プロレスに入団して、3年ほどは後輩が定着しなかったから、ここでもずっとちゃんこ番や雑用をこなしていました。 当時も『カレーちゃんこ』をメニューに加えるなど、おいしいものを作るということには自信があったんです」 そして1年先輩の三沢が急死したことでプロレスへの情熱を失い、レスラーとしての活動を休止。 セカンドキャリアに選んだのが「ラーメン屋」だった。 「例えば『ちゃんこ屋』であるとか、昔から人がやっているようなことをやりたくない性格。 ラーメンを自分のレシピで作るというのは、誰もやったことがないだろうと」 飲食業を始めようと思い立ち、たまたま借りた物件がラーメン屋だったことも幸いした。 そして知り合いの中華料理店で短期間だが修業させてもらった。 開店にこぎつけたのは10年6月12日である。 看板メニューはラーメンと鶏の唐揚げで、店名はレスラー時代の愛称・デンジャラスKにあやかって「麺ジャラスK」とした。 立地は最寄りの成城学園前駅から少し離れていたこともあり、3台分の駐車場も確保した。 こうして意気揚々とオープンしたが、想定外の事態が次々と川田を苦しめることになる。

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