原爆 ドーム もともと。 世界遺産「原爆ドーム」を内部まで見れるのはストリートビューだけ

原爆ドームを英語で説明しよう!広島の惨状はこの表現で紹介

原爆 ドーム もともと

突然ですが、みなさんは「 原爆ドーム」を見たことはありますか? 原爆ドームは、平和の大切さを世界に訴えるシンボルとして1996年に世界遺産登録されました。 日本人にとってはもちろんのこと、世界中の人にも大きな影響力をもつ建築物として、重宝されています。 多くの方が、教科書などで原爆ドームを目にしたことがあると思いますが、実際にその姿を見た経験のある方はそう多くはないのではないでしょうか。 今回は、そんな原爆ドームの姿をストリートビューで見に行きたいと思います。 また、普段は柵で囲まれているので中に入ることはできませんが、ストリートビューでは原爆ドームの中に入ることができます。 内側の魅力まで探りに行きましょう。 観光地のシンボル 原爆ドームは、広島県広島市に位置し、広島城や平和記念資料館が立ち並ぶ観光エリアの中でも、ひと際その存在感を発揮しています。 すぐ近くには、その名がついている「原爆ドーム駅」があるため、大変アクセスのよい場所となっています。 原爆ドームって 原爆ドームの歴史 広島県物産陳列館 現:原爆ドーム は、大正4年に完成しました。 今から100年ほど前の話です。 当時の広島は、日露戦争の影響により近代工業が発達し、経済が活性化していました。 この経済的発展に伴い軍需品のさらなる開発や、既存商品の品質向上、販路の拡大などが活性化していき、拠点作りが求められたため、建設が開始されました。 当時には珍しいヨーロッパ調の建築物は広島に住む人々を驚かせると同時に、多くの人々を惹きつけました。 物産陳列館の役割は、広島県内の物産のみならず、他府県からの参考品の収集や陳列、さらには取引の紹介に関する新聞・雑誌の閲覧、図案調製等でした。 また、陳列館としての役割のみならず、会場自体を提供することで博物館や美術館の役割も果たしました。 原爆ドームと呼ばれる理由 現在は原爆ドームと呼ばれているこの建物ですが、誕生当時の「広島県物産陳列館」から、1921年には「広島県立商品陳列所」へ、さらにその12年後の1933年には「広島県産業奨励館」へと改称されています。 そして戦後、産業奨励館の残骸を見て、いつしか市民が「原爆ドーム」と呼ぶようになりました。 1996年に原爆ドームは世界遺産登録され、時代を越えた核兵器の根絶と永遠に続く平和の大切さを世界へ訴えるシンボルになっています。 もともと、鉄骨を使用した煉瓦造の建築で、今でもその面影を垣間見ることができます。 周りには黒い柵が張られており、市民や観光客が勝手に立ち入ることのないよう厳重に注意されているようです。 原爆ドームの左側には「元安川」が流れており、穏やかな雰囲気が辺りを包み込んでいます。 原爆ドームの中へ 普段は入場出来ない原爆ドームの中へ、いざストリートビューを通して入ってみましょう。 内側の芝生の面積もとても広く、普段、どれほど離れたところから原爆ドームを眺めていたかということが分かります。 それにしても、近くで見ると迫力が違いますね。 建物の外側には、煉瓦の残骸が散らばっています。 黒い柱によって支えられている内部からは、原爆ドーム保存に向けた取り組みを垣間見ることが出来ます。 被爆後、被害を受けたままの姿で維持されてきましたが、雨や風などにさらされることで建物が劣化し倒壊する恐れがあったため、1967年に初めての保存工事が行われました。 その後、数回に渡って行われている工事は、全て世界中の人からの協力で集められた募金によって行われています。 このことは、人々の平和への想いと原爆ドームが果たしている役割の大きさを改めて感じさせてくれますね。 この広場の壁は灰色になっている部分も多いですが赤色が残っている部分もあり、当時の面影を感じさせてくれます。 それにしても、この煉瓦の量が尋常ではありません。 崩れ落ちた大量の煉瓦が、原爆の被害の様子を物語っているかのようです。 第二次世界大戦中に戦争に動員された学生と、原爆の犠牲者を含めた約1万人の学徒の霊を祀っているものです。 動員学徒慰霊碑の他にも、平和記念公園の中には様々な記念碑があるので、是非上のストリートビューで探索してみてください。 前広島市長からのメッセージ 動画では、ストリートビュー撮影時の様子と秋葉忠利前広島市長から頂いたメッセージを紹介しています。 今回は原爆ドームの周りを二輪自転車で撮影していることに加え、その自転車が街中を走っている様子を見ることもできるので、是非ご覧ください。 最後に 戦争を経験した人々が少なくなってしまった今、この原爆ドームが後世に残す影響力はこれからも大きくあり続けると思います。 また、普段見ることのできない内部を見ることが、平和への想いをより一層強化するきっかけとなっていることを願います。

次の

もしも、原爆ドームが残っていなかったら 〜広島〜

原爆 ドーム もともと

太平洋戦争が「終わり」を迎えてから、2017年8月15日で、72年がたった。 今となっては遠い昔のことのように思えてしまうが、2016年5月、アメリカのオバマ大統領が現職として初めて広島を訪問した。 その直前、ハフポスト日本版はスタンフォード大学アジア太平洋研究所(APARC)のダニエル・スナイダー研究副主幹を取材した。 アメリカでは、広島と長崎への原爆投下が戦争を早く終わらせた「必要な手段だった」と考える意見も強い。 スナイダーさんは、小さいころに日本に住み、記者として日本に滞在経験もある。 戦争に対する日本人の心情に思いを寄せつつ、複雑なアメリカ人の「胸のうち」も語った。 「8・15」に改めてスナイダーさんの言葉を紹介したい。 そう思うのはなぜですか。 残虐な戦争犯罪だったという意見はありますか。 普通のアメリカ人はどう思っているのですか。 1945年にアメリカが原爆を広島と長崎に落とした時の、当時のアメリカ国内の状況を考える必要があります。 戦争が始まって約4年がたち、国内に残された家族たちは「早くお父さんや子供たち、兄弟が帰ってきてほしい」と願っていました。 私の父親も沖縄戦で戦いましたが、「硫黄島の戦い」を始め、大変困難な戦闘が続いて疲れ果て、「早く戦争が終わってほしい」と考えていたのは確かです。 また、アメリカ軍は九州や本州に侵攻する作戦も立てていました。 原爆によって、もちろんそれ以外にも複雑で多様な要因はありますが、日本に降伏を早く決断させて戦争を終わらせた、アメリカ軍の日本の本土侵攻を防いだと考える人が根強いのではないでしょうか。 「戦争犯罪だったのではないか」という声は少ないです。 アメリカでも、多くの市民を死に至らしめたという点では、道義的には議論がありますが、「戦争犯罪」とまで言えない意識が強く、原爆投下を決めた当時のトルーマン大統領の判断の正当性を疑う声は主流派にはなり得ません。 トルーマンはもともとは副大統領でしたが、大統領だったルーズベルトの死で、突然就任しました。 「威厳もない小物が大統領になった」とする声もありましたが、太平洋戦争や朝鮮戦争など歴史が動く中で、(賛否はあっても)重大な決断に向き合った大統領という評価が今ではあります。 彼の執務室には「the buck stops here(意訳:「ココが最後の決定の場だ」)という言葉を書いた置物があったのは有名な逸話です。 その「決定」の最たるものが原爆投下です。 悲劇的な出来事だったが、必要な決断だったのではないか、と考える背景です。 他にはどのような議論があるのでしょうか。 戦争を終わらせるため日本に原爆を落としたことを正当化するアメリカ人に対して、たった3日後に長崎にまで二つ目の原爆を落とす必要があったのか、と問えば、「そこはおかしい」と思う人はいます。 10年ちょっと前でしょうか。 私の息子が中学校の社会科の授業で、原爆について調べて、投下が正しかったのか「立場を取れ(賛成か反対かを明らかにしろ)」という課題がありました。 私の息子は「たとえ原爆によって戦争を終わらせたことが正しかったとしても、二つ落とすのは間違っていた」という立場を取りました。 私は日米の教育の違いを調べたことがありますが、アメリカの教科書は、広島や長崎でどのような悲劇があったのかを日本以上に詳しく伝えているところもあります。 アメリカでもデリケートなテーマにかかわらず、原爆投下の正当性を疑う意見も授業で紹介されます。 決して、一方的に原爆の考え方を押し付けているのではなく、多様な意見を示す。 歴史とは「事実」だけを追い求めるというより、(指導者や国民が)歴史的な判断をした時の「当時の背景」や「時代の文脈」を学ぶ場だからです。 私は父親がアメリカ大使館に勤めていた関係で、1954年に、まだ小さかったうちから日本にきていました。 今の沖縄と同じで、東京の中でもアメリカ軍が身近で、戦争の影が残っていました。 その後、何度か広島や長崎に行きました。 1960年代以降の世界的な反戦ムードの高まりもあって、私は若い頃は、原爆の正当性を疑うこともありました。 しかし今は、もちろん複雑で多様な側面があるとはいえ、戦争を終わらせた側面はある、というのは説得力ある議論だと思います。 右派からも左派からも批判がありました。 右派の人は、たとえオバマ大統領が直接的に謝罪の言葉を述べないとしても、広島に行くことは「謝るのと同じことだ」と考えます。 戦争で戦った兵士たちの名誉を傷付けることになる。 日本が被害者である部分だけが強調され、戦争責任を薄めてしまうのではないかという心配もあります。 広島の原爆投下を伝える展示を見て、不快に感じるアメリカ人は今もいます。 アメリカによる原爆投下の酷さを伝えることに大部分が割かれていると感じるためで、「ちょっと待て。 当時の時代的背景はなんだったのだ。 そもそも(真珠湾で)米国を攻撃したのは誰だ?」と思うからです。 左派からは、オバマは広島で「核の恐ろしさ」を訴えたとしても、実際は世界の核軍縮交渉は行き詰まり、アメリカは軍備を強化している面もあるので、「偽善ではないか」と言う疑問の声も上がっています。 大統領の広島訪問によって、「原爆」や「太平洋戦争」がアメリカ人の議論のトピックに再浮上しました。 次は、「では、安倍首相はいつ(日本が攻撃した)真珠湾に行くんだ」「極端な話をすれば、南京や韓国には行くのか」という議論が起こり得ます。 大統領の広島訪問によって、日本の政治的リーダー層自身も、大変デリケートで難しい歴史問題に向き合わないといけない、というプレッシャーがかかることになります。 もし安倍首相が真珠湾を訪問するとしたら、「日本が戦争を仕掛けた」と言うアメリカなど戦勝国側の歴史観と向き合わざるを得ない。 大統領にとって難しかったのと同様に、とても難しい判断を迫られる可能性もあります。 アメリカの現職の大統領が今まで、できなかったことなのですから。 少しでも原爆投下の正当性に疑問を持っていると思われたら政治的に大きなダメージを受ける決断だったのです。 オバマ大統領は、2009年にチェコの首都プラハで演説し、「核兵器を使ったことのある唯一の核保有国として、行動する道義的責任がある」と演説しました。 ルース駐日大使(当時)が広島と長崎を訪ねました(その後、ケネディ駐日大使やケリー国務長官も被爆地訪問)。 ずっと頭の中にありながら、決断が遅れた。 険しい坂道に向かって石を押し続けるようなタフな決断だったのではないでしょうか。 同じように、安倍首相にとっても歴史と向き合うことは大変なことになります。 オバマ大統領は、人種問題やキューバとの国交樹立など政治的にデリケートな問題を議論をして、そこに向き合うときに並々ならぬ情熱を燃やします。 ただ、先ほども申し上げたように、アメリカで原爆のことを話すことは大きな政治的なリスクがあります。 「なぜ終わったことを蒸し返すのか」と言う声も上がるでしょう。 デメリットも大きいことに、周囲が止めようとしたのは簡単に想像がつきます。 オバマ大統領といえども、任期の最後の方でしか訪問が実現できなかったのは確かでしょう。 もちろん「レガシー(歴史に残る偉業)」を作りたいという思惑もあるはずです。 広島訪問はたんにオバマ大統領の言葉が大事なのではありません。 広島で(安倍首相と)二人で並び、写真に取られる。 その構図が大きなインパクトを世界に与えます。 日本人の太平洋戦争の「語り方」は基本的に三つに分けられると思います。 1つは、戦争はアジア諸国を解放するためにやったと言う語り方。 欧米の国がどんどん強くなり、そうした帝国主義的な動きから日本を守るためにやったという理屈です。 2つ目は、軍部が勝手に暴走して、日本国民は無謀な戦いに巻き込まれたのだという考え。 3つ目は、あえて主語を曖昧にして、「戦争そのものが悪かった、間違っていた、もう二度としない」と言う語り方です。 どれも違う立場の人たちがよく口にする言葉ですが、「受け身」であることに変わりありません。 欧米諸国の帝国主義や植民地主義に対抗するため「仕方なくやった」と考えるにせよ、軍の責任だと規定するにせよ、戦争そのものがダメでだという考えにせよ、明確な主体がありません。 「私たちは被害者です」という出発点からの語り口になってしまいます。 というより、戦争を語るときに被害者の視点に重みが置かれることは各地でみられることです。 ヨーロッパ諸国も、実際はナチスに協力した面もあったにせよ、ナチスの台頭に巻き込まれた被害者として戦争を語ります。 時代ごとに国民世論に変化はあるにせよ、韓国や中国なども一緒です。 戦争の責任を曖昧にするため、「自分たちは被害者だった。 悪い人たちに巻き込まれたんだ」とするのは、戦争の記憶を語るときに共通してみられる現象です。 アメリカ人にも私は言うんです。 あなたたちは、「なぜ日本、韓国、中国は常にもめているのだ。 過去は忘れて前に進めばいいのに」と揶揄するが、アメリカだって南北戦争やベトナム戦争のことを未だに引きずっている、と。 州ごとの対立はありますし、南北戦争の論点の一つだった人種問題も解決しているとは言えません。 イラクやアフガニスタンの戦争でも過去を引きずっているから様々な問題が起こる。 戦争は、長い時間がたっても、今を生きる人々のアイデンティティを作ります。 自分たちの国や外国のイメージは、戦争体験を元に形作られます。 日本もそうでしょう。 終戦直後から、日本人は戦争を語り続けてきました。 たくさんの本や映画やテレビ番組で戦争について議論を重ねてきました。

次の

広島の原爆ドームは元々何の建物?黒い雨とは?広島原爆投下についてまとめました

原爆 ドーム もともと

小学生の頃から歴史の授業で 広島原爆ドームの事を先生から聞いていましたよね。 実際は 広島平和記念碑という名前で 世界遺産に登録されています。 その悲惨な建物の様子から 当時の恐怖を感じれるようにと残された建物ですよね。 元々は広島県物産陳列館として建っていた建物ですが、 原爆が落ちたことによって広島県産業奨励館と呼ばれるようになりました。 負の世界遺産と呼ばれるのは、 同じよう悲劇が繰り返されないようにと願いを込めて呼ばれる異名でもありますね。 歴史の授業で習っていることでもあるのでみなさんも当然詳しくご存知だと思われますが、 原爆ドーム被爆前の建物や当時の状態、その後の現在に至るまでの流れなど について振り返っていきたいと思います。 st-hatena. jpg しかし、ほぼ真上から落とされた原爆がこの程度の影響で済んだ事に疑問を持ちますよね。 理由として考えられることは3つほど挙げられています。 原爆の落とされる目印になったことにより 周りに流れる衝撃から逃れられた事を意味しているんだと思います。 ドームの中の気圧が窓が割れたことによって 外気と差がなくなり全焼まではいたらなかったと考えられます。 建物の本体とは異なってドーム部分は融点の低い銅で屋根が作られていました。 そのため、 原爆が落とされる直前にドームの屋根が溶けることにより爆風の逃げ道を作ったのだと考えられます。 爆心地とまで呼ばれる周辺に比べ何故か建物が押しつぶされるなどの結果にならなかったのか、 疑問や推測はいくつか挙げられるのですが、実際は何一つわからないのが現状です。 因みに、当時ここで勤務していた人は当然全員が死亡となっていますが、 運良く8時ころに帰路に向かっていた従業員1人が勤務していた中での唯一の生存者となっています。 その後現在に至るまでの流れ 当然焼け野原となった広島にこのドーム状の鉄組はよく目立ちました。 良くも悪くも目立つこの建物は戦争が終わる頃、 既に市民から原爆ドームと呼ばれていたそうです。 その後現在に至るまでの流れでは、復興を進めることにより 建物を取り壊す計画や修復する話も出てきました。 建物を管理していた「広島県産業奨励館廃墟」の人も同情を引こうという意思を感じたのか 「自分はアバタ面を世界に誇示し同情を引こうとする貧乏根性を、 広島市民はもはや精算しなくてはならない。 」と新聞に書き立てるほどだったようです。 しかし、考えは変わって1949年当時「広島平和記念都市建設法」が制定されました。 これにより平和を誠実に実現しようという意思が広まったそうです。 この第1計画として行われたのが、平和記念公園の計画です。 この公園は原爆ドームを北に起点としておいて 原爆死亡者慰霊碑・広島平和記念資料館が南北の方向に一直線に位置するようになっています。 これにより原爆ドームが一層際立つシンボルと化しました。 まとめ 第二次世界大戦について一番わかりやすく書かれている作品は個人的にマンガの「はだしのゲン」だと思います。 誰もが名前くらいは聞いたことがあると思いますが、 この話は広島に住む1人の男の子が主役で戦争によって起こった日本の変化を巧妙に描かれていると思います。 今でも戦争は行なうのを禁止している日本ですが、 正直これからどうなっていくのか心配になる時もありますよね。 戦争を知っている人が着々と寿命を迎え亡くなっていくなかで、 戦争への恐怖もなくなってしまうのではないかという不安からくるものだと思います。 でも、その度この原爆ドームを見て大丈夫だと安心出来るのではないでしょうか。

次の