豊臣 秀吉 死因。 豊臣秀吉の名言・逸話30選

【豊臣秀吉】農民から天下統一までの道のり!辞世の句についても

豊臣 秀吉 死因

実は筆まめ? 天下人となった豊臣秀吉は、人たらしとして知られています。 そんな風に言われるようになった理由は豊臣秀吉の、人に対する細かな気配りにありました。 例えば、豊臣秀吉は時々知り合いに手紙を書いており、その手紙が現代まで残っています。 その手紙の一つ、側室である松の丸殿に送った手紙も残されています。 これは松の丸殿が腹の具合を悪くしたときに送られた手紙でした。 豊臣秀吉は松の丸殿にあてた手紙の中で、薬を飲むように、もしよくならなければそちらに出向くとまで書き送っているのです。 また、池田恒興の母は養徳院という女性ですが、ある時、長男の元助、そして娘婿の森長可と池田恒興が討ち死にしてしまいます。 その際も豊臣秀吉は養徳院に向けて見舞い状を書き送っているのです。 それも、池田恒興が戦死して2日後という早さで送られた手紙でした。 このように、天下人となった豊臣秀吉が人気だった理由は、様々な人々に細やかに気を配っていたからだったのです。 ほしい人材は丁重に 豊臣秀吉は様々な人に手紙を送りましたが、ぜひ手に入れたい人材がいたときも手紙を出していました。 例えば、中国計略の際、黒田官兵衛を囲い込もうとした豊臣秀吉。 その時、黒田官兵衛に向けて兄弟として付き合いたいという内容の手紙を書き送っているのです。 そんな手紙を受け取ったなら、だれでも悪い気はしません。 また、軍師として竹中半兵衛重治を迎えようとしたときも、断られるのを見越してあえて三顧の礼で迎えた、という逸話があります。 自分が目上であっても欲しい人材を手に入れたいときには礼を尽くし、どうすれば自分のもとに来てくれるのかを考え、実行しているのです。 人たらしでありながら、そんな策略家でもあった豊臣秀吉。 人気があった豊臣秀吉の魅力の理由はそんなところにも隠れているのです。 秀吉の魅力がわかる大茶湯 また、豊臣秀吉の魅力はそれまでにないことをも実行したことにもあります。 その一つが北野大茶湯です。 当時、茶が人気となっていました。 そんななか、豊臣秀吉は大きな茶会を催したのですが、その参加者には身分を問うことはしなかったのです。 町民でも武将でも、茶の心得のあるものならばだれでも参加できるようにしたという今までにない茶会でした。 1587年10月1日に行われたこの茶会には約千人もの人が集まったといわれています。 身分を問わずに参加できるようにするなど、庶民たちにとってはめったにない魅力なものでした。 豊臣秀吉が今でも人気の理由は、そんな魅力的な人たらしっぷりにあったのです。

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豊臣秀長の死因はまさかの暗殺!? その首謀者は誰だ!

豊臣 秀吉 死因

【目次】• 幼年・青年期 手がつけられない? 秀吉は生まれつき賢く、成長するにしたがって束縛を嫌い、継父の竹阿弥(ちくあみ)にも反発するようになり、母の諌めにも全く耳を傾けずにわがままな振る舞いが多かったという。 8歳のころに寺に預けられたが、学問などはせずに一日中竹木で槍術や剣術のマネごとをし、人が武芸や合戦に関する事を語っているときには必ず聞いていたといい、また、常に「坊主はみな乞食だ!おれは乞食になどなるものか!」と言って悪口し放題で遊んでおり、人とのトラブルが絶えなかったという。 これを見兼ねた寺の僧が「家に返す」と言うと、秀吉は「追い出すなら寺に火をつけて坊主どもを斬り殺す」とあたりちらした。 このため僧は他の理由をつけて寺を出るよう頼み込み、色々なモノを与えるなど秀吉の機嫌をとって家に返したという。 (『名将言行録』) 母親もあきれはてる 寺から戻った秀吉は、生計の手伝いをしたが、家が貧しかったために他人の奴僕(=召使い)に出されたりもした。 しかし、どこへ行っても長く続かず、家に戻ってきては継父に逆らう始末であり、母もあきれはて、秀吉に涙を流して小言を意見するほどだったという。 (『名将言行録』) 松下之綱に仕える(秀吉15歳) 秀吉は 天文20年(1551年)に家を出て、尾張の清洲で針を売買してはそれを旅費にあって東国へ向かった。 そして、遠江の引間での家臣・松下之綱に声をかけられると、一目置かれてその場所で主従の約束を交わしたという。 しかし、まもなく秀吉は之綱の知人に紹介され、彼らに一芸を披露。 その結果、彼らは秀吉を気に入り「もらい受けたい」と之綱に所望し、之綱もその知人にもらわれるように秀吉に勧める。 これに秀吉は「今日主従の約束をしたのに、今日ほかに行けというのは、主君としての法ではない」と言って之綱を理で屈服させ、之綱に仕えることになったという。 それは秀吉が冷えた草履を背中に入れて暖めておいたからであった。 信長はその忠義に秀吉をすぐに草履取頭にしたという(『名将言行録』)。 秀吉のアピール話 秀吉は仲間たちに自分を知ってもらうため、あえて小姓の小便所の下に隠れ、小便をかけられると「小便をしかけるのは何者だ!」と相手を咎め、相手が「そこにいるとは知らなかった。 」と言うと、「ご存じなくてごもっとも。 お気にかけられるな」と返答したため、"物わかりのいい奴" として誰もが幾分秀吉のことを知るようになってきたという。 また、あるとき、ミカンの皮を小姓からもらい、その後すぐに肩衣(=小袖・袴の上に補助衣的に着用されたもの)を着て「これはミカンの皮で仕立てたものだ」とアピールしたという。 周りの者にその理由を問われると、「ミカンの皮を集めて売って手に入れた銭で作った」と答え、皆に賢い者だと知られるようになったという。 (『名将言行録』)。 日々、勇む ある日、信長が犬山城近辺を焼き働きに出たが、その時に馬に乗って勇む者がいた。 信長が「誰だ!」と問うと、秀吉が「藤吉郎めにございます」と名乗った。 その後、信長が夜明けごろに鷹狩りにでた際も「誰かいるのか」と言うと、秀吉が「藤吉郎ここにおります」と答えたといい、信長は感心して次第に親近の情を増していったという(『名将言行録』)。 このとき、20日余りかかってもはかどらなかったが、秀吉がその役目が与えられると、わずか2日でこれを完了させた。 そして、信長から俸を賜わり、役人に取り立てられたという(『名将言行録』)。 指揮官としての才覚(秀吉27歳) 永禄6年(1563年)、信長が川狩り(=魚捕り)にでかけたとき、信長はふざけて兵士らを整列させ、秀吉を指揮官とさせた。 すると、秀吉は兵に役割を振り当てて指揮をしたが、その様子は兵法に精通している者のようであったという。 たきもの。 燃料)の出費が多いことを心配して秀吉を薪奉行にした。 秀吉は、かまどの前に垣を作る事で薪の入用を大きく減らし、出費も減らせたという(『名将言行録』)。 許されぬ旗竿 織田の軍勢が美濃国へ出兵したときに見慣れない旗があった。 信長が「誰だ!」と聞くと「木下藤吉郎の旗です」と返答が返ってきた。 そのとき信長は激怒して旗竿を切り折らせたが、秀吉はこれを少しも恨む様子もなく平然としていたという。 (『名将言行録』) 墨俣一夜城の建設(秀吉30歳) 永禄9年(1566年)には美濃国の斎藤氏との戦いの中で、戦線打開のために砦を築いて守備するという危険な任務に自ら手をあげたという。 (『名将言行録』) ちなみにこの砦が秀吉が一夜にして築いたと伝えられる墨俣一夜城であり、美濃攻略に大きな功績を残した。 織田政権下(将軍義昭の誕生後~) 金ヶ崎の際、殿を務める(秀吉34歳) 元亀元年(1570年)の金ヶ崎の退き口と呼ばれる撤退では、秀吉は自ら殿軍の名乗りをあげたと言われている。 しかし、『武家雲箋』には、殿軍には秀吉より地位の高い摂津守護の池田勝正や明智光秀がいたことが記されているため、秀吉が殿軍の大将を務めたという説には疑問が残っている。 また、戦後には信長に論功行賞で貢献を称えられ、黄金数十枚を与えられたという。 有岡城主、謀反のとき(秀吉43歳) 天正7年(1579年)に信長家臣の有岡城主・が反意を明らかにした時、秀吉は有岡城に出向いてこれを諭すも、村重はこれに応じなかった。 そして、秀吉をもてなしていた最中、村重の家臣が秀吉殺害を村重に進言した。 しかし、村重はそれを制止して秀吉にそのことを伝えたという。 すると秀吉はその村重家臣を勇士として褒め称え、呼び出して盃を交わした後、腰間の短刀を差替もなく贈呈した。 秀吉のその凛然とした勇気に手出しするものは一人もいなかったという。 (『名将言行録』) 秀吉の家臣の扱い方 明智光秀の家臣・宮部加兵衛という者は最初、秀吉に仕えていた。 ある日、光秀が加兵衛に秀吉の家臣の扱い方を聞くと、秀吉のそれは他とそんなに違いはないが、少しの功績で想像以上の多くの褒美を与えるとのことであった。 光秀はこれを聞いて舌を巻いたという。 (『名将言行録』) 勝頼の死を惜しむ(秀吉46歳) 秀吉は 天正10年(1582年)の甲州征伐で信長が甲斐武田氏を滅ぼしたとき、中国方面軍団の指揮官として中国攻めの最中であった。 秀吉はの死を知ると、その死を繰り返し悔やんだという。 「わしが甲州征伐に従軍していたなら、勝頼を生かして甲斐・信濃の2国を与え、関東の先鋒に命じたならば、東国支配を推し進められたものを」と。 (『名将言行録』) 天下統一事業の覇権争い(信長死後~) で宇喜多氏に一計(秀吉46歳) 信長が討たれた後の中国大返しのとき、秀吉は備前岡山の宇喜多氏の謀略を警戒し、事前に使者を派遣して「ともかくそちらへ行って弔い合戦の策を練る」と伝えさせた。 宇喜多はもともと光秀と心を通じていて、秀吉らの帰路を塞ごうかどうか迷っていたが、この報を聞いて城中で秀吉を討ち取ろうと企てた。 秀吉はまもなく岡山城へ着くことをいい触らしたが、仮病を装って時間を稼ぎ、その間に雑兵にまぎれて城を通り抜けたという。 その後、岡山城を通りぬけた言い訳をし、宇喜多勢をあきれさせたという。 (『名将言行録』) の謀を見透かす(秀吉46歳) 信長の死後、織田家の後継者決めで秀吉と柴田勝家との間に不和が生じて権力闘争がはじまったが、まもなくして勝家から秀吉に和睦交渉を持ちかけられて和睦成立となった。 勝家は越前国を本拠としており、これは雪で身動きがとれなくなるために春まで時間稼ぎをしようという見せかけの和睦であった。 しかし、秀吉は最初からこれを見抜いており、和睦を反故にして出兵したという。 (『名将言行録』) あまりある食糧(秀吉46歳) の前、秀吉はに足軽30人を付け、金銀や米を集めさせて5万人ほどの兵糧と秣(まぐさ、馬や牛などの飼料にする草)を手にして兵士たちは十分に腹を満たすことができた。 そして上下の者みなが言った。 「これほどまでに多くの食糧にありつけた軍陣ははじめてだ」と。 敵味方の区別なし(秀吉47歳) 天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いの最中、熱暑にあえぐ負傷兵に対し、農家から大量の菅笠を買って敵味方の区別なく被せて回ったという。 (『賤ヶ岳合戦記』) 数万の徳川兵に臆せず(秀吉48歳) 天正12年(1584年)のの後、上洛した徳川家康の下を近習一人をつれて密かに訪れ、数万の徳川兵の中で酒を交わしながら翌日の拝謁の打ち合わせをしたという。 秀吉、秀長を言い聞かせる(秀吉50歳) 戦わずして勝ちを得るのは、良将の成すところである。 (『名将言行録』) 秀吉は家康を懐柔して従属させるため、 天正14年(1586年)に母・大政所を家康の元に人質として向かわせることを決めたが、これをよく思わなかった弟のがいさぎよく家康と戦うことを進言した。 この後、秀吉が秀長を言い聞かせた一節が冒頭の言葉。 豊臣政権下(関白宣下以後) 島津をも圧倒(秀吉51歳) 天正15年(1587年)、九州征伐で降伏してきたに対し、彼が丸腰であるとみた秀吉は自らの佩刀を与えたという。 義久は秀吉を討ち取る機会を得るも、そうすることはできず、そして、このことを伝え聞いた九州の者らはますます秀吉を恐れて従ったという。 (『名将言行録』) 北野大茶湯にて(秀吉51歳) 茶の湯執心のものは、若党、町人、百姓以下によらず、釜一、つるべ一、のみ物一、茶はこがしにても苦しからず候。 ひつさげ来たり然るべき事。 「茶の湯執心の者は若党や町人、百姓以下によらず、釜一つ、釣瓶水指一つ、湯呑み一つでもよい。 抹茶のない者は、麦こがしでもかまわないから持参するべし」という意味。 これは 天正15年(1587年)の秀吉主催の京都・北野天満宮の境内で行なわれた茶会に際し、公布した触書の一つ。 刀狩り令(秀吉52歳) 百姓は農具さへもち 耕作もっぱらに仕候へば、子々孫々まで長久に候(『小早川家文書』) 「百姓というものは農具さえ持って耕作に専念すれば、子々孫々に至るまで末長く栄えるものだ」という意味。 これは 天正16年(1588年)の秀吉の刀狩り令の一節。 政宗を怯ませる(秀吉54歳) 天正18年(1590年)の小田原征伐で遅参した伊達政宗 に佩刀を預けて石垣山の崖上で二人きりになったとき、政宗は秀吉の度量に気を呑まれて斬りつけることは出来なかったという。 銃弾がかすり・・(秀吉54歳) 弾にあたるもあたらぬも運のひとつじゃ(『名将言行録』) 小田原征伐で銃弾が秀吉の頭をかするほどに通って狼狽した。 秀吉はこれを悔しく思い、一人で城のほうへ近づいてわざわざ鉄砲の激しい場所で小便をしたという。 これに近臣らが竹束をもって矢面に立ったときに秀吉が言った言葉。 インドのゴアの総督へ(秀吉55歳) それ、わが朝は神国なり。 神は心なり。 森羅万象、一心に出ざるなし。 「そもそもわが日本国は神国である。 神の道は万物の根源をなすものであり、仏道や儒道なども、その根本はみな神道である。 」という意味。 これは 天正19年(1591年)に秀吉がインドのゴアの総督に送った国書の一節。 キリスト教の布教の禁止を宣告するもの。 信長を批評 信長公は勇将であるが良将ではない。 (『名将言行録』) 秀吉はこのように言い、続けてその理由(以下)を述べたという。 剛を持って柔に勝つことを知っていたが、柔が剛を制することは死らなかった。 敵対した者に対しては、いつまでも怒りを解かず、ことごとくその根を断ち、葉を枯らそうとした。 だから降伏する者をも誅殺した。 これは器量が狭いためだ。 人には敬遠され、衆から愛されることはない。 わしに勝つ者はいない 天下にはわしに背く者はあっても、わしに勝つ者はいない。 (『名将言行録』) これは秀吉が常に近臣たちにいっていた言葉という。 源頼朝よりも格上 わしの功は源頼朝よりも100倍も上なのじゃ。 (『名将言行録』) これは秀吉が家臣らと古今の人物を評論していたときに言った言葉。 辞世の句 露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことも 夢のまた夢 「ひとしずくの"露"のようにこの世に生まれ、また、露のように儚く消え果てた我が身の上であった。 大阪で過ごした日々も夢の中の夢のようだ。 」といった意味。

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豊臣秀吉の生い立ち~農民出身指6本で天下統一を叶えた性格と死因

豊臣 秀吉 死因

の姉であるとの次男で、の弟、 の兄。 は 小吉(こきち)。 他の秀勝との呼び分けとして、史家は便宜上、 小吉秀勝(または三好秀勝)と呼ぶことがある。 しばしば と混同され 、丹波少将や丹波中納言という同じが用いられた。 岐阜宰相とも言われるがこれは間違いで 、遺領を継いだ(三法師)が同じく称されたものとの混同である。 生涯 [ ] 12年()、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の姉日秀(とも)と三好吉房の次男として生まれた。 幼名は小吉。 の『』によれば、小吉は(片目)であったという。 秀吉の養子となった時期は不明であるが、13年()に羽柴秀勝(=於次秀勝 )が病死した直後と考えられている。 一説には、小吉は於次秀勝の諱と共に官位を所領とを受け継いだと言い、同じく主 となって、左近衛権少将にも任じられたので、「丹波少将」と呼ばれ、史料においてしばしば両者の混同が見られる。 一方で、は天正13年9月に出された宛のと同月に同国富田宿に出された に小吉秀勝と署名されたものが現存していることから、天正13年12月に没したとされる於次秀勝と小吉秀勝の2人の秀勝が、少なくとも数か月間は同時に存在していたのではないかと指摘している。 なお、於次秀勝とは異なり、跡取りとは見なされておらず、後に小吉秀勝の兄秀次が秀吉の養嗣子となっている。 『』の天正13年10月20日条によると、同年10月18日頃、 を正室に迎えたとされるが、時期には異説がある。 吉田兼見はこれを「羽柴秀勝」の婚儀と書いているが、於次秀勝がこの頃まだ存命であったはずであり、よって2人の結婚は翌年以降か、元年()とする説が有力とされている。 ただし、前述の片山説を採用した場合には、すでに小吉秀勝を名乗っていたはずであるから矛盾はなく 、天正13年に正室を迎えていたと考えるべきであろう。 天正15年()、秀吉のに十一番隊5千人を率いて従軍。 軍議にて・が(巌石城)攻めを主張したので、秀勝がその攻撃の総大将を命じられた。 蒲生隊2千、前田隊3千余であり、両将の働きでこの城は力攻めによって攻め落とされたが、功は総大将である秀勝のものと帰した。 『多聞院日記』によれば、戦後の論功行賞の席で、秀勝は丹波亀山10万石(別説では28万石)ではが不足であると秀吉に不平を訴えたため、その怒りを買ってされ、所領を没収されて、丹波亀山はに与えられた。 天正16年()、兄秀次に1年遅れてを下賜された。 天正17年()10月、『多聞院日記』によれば、が子を為さずして亡くなり断絶したため、遺領のうち5万石と私財の全てを秀勝が引き継ぎ、主となったと言う。 しかし後年の軍記には同年、秀吉は敦賀城をに与えたとあり、異説もある。 天正18年()、に従軍。 攻めで功があり、小田原城包囲では秀次と共に落窪山に陣をしいた。 7月に関東に転封されたの備えとして、11月に旧徳川領のうち・2か国が秀勝に与えられて転封となり、甲斐の府中() に移った。 秀勝の甲斐支配は8ヶ月あまりであるため甲斐・信濃支配の残存史料は少ないが、甲斐ではや河内におけるの実施を試みており、寺社への寺領安堵や禁制、の右左口に対する諸役免許 発行などの行政をしている。 ところが、秀勝の母、瑞龍院日秀が甲斐は僻地で遠すぎると秀吉に嘆願を続けたため、天正19年()3月にはへと転封となり、甲斐信濃23万石は替わってに与えられた。 同年8月に秀吉の嫡男が死去し、それに伴って11月に兄秀次が秀吉の養嗣子となったので、同月、秀勝も・に任じられた。 これにより秀勝は「岐阜宰相」と呼ばれるようになったといわれるが、実際には岐阜宰相を名乗った事実はない。 12月、秀次はさらにに任じられた。 また弟の秀保は、これより前の同年1月に豊臣秀長の婿養子となって秀長の娘「おきく」と婚約し、ほどなく旧領100万石を相続して、大和中納言と称されていた。 文禄元年()のでは、岐阜兵8,000の兵を率いて、九番隊の大将として出征した。 らを率いて、4月下旬にからのに渡ったが、同島で半年ほど滞陣していた間に病を発して、戦病死した。 享年24。 釜山より軍監が渡ってきて残務処理をし、秀勝の部隊は奉行衆がそれぞれ受け持った。 その後、遺領の岐阜城と九番隊の指揮権はそのままに与えられることになったが、出征までしばらく時間を要したからである。 秀勝の遺体は京の嵯峨亀山()に輸送され、瑞龍院日秀によってに葬られた。 法名は光徳院陽巖。 同年または一説には翌年、小吉秀勝と江の間にが産まれた。 完子は、江の姉に養育され、成長した後にに嫁ぎ、完子の子孫が大正天皇の貞明皇后となり、現在の皇室・宮家となっている。 正室の江は文禄3年()にに再嫁した。 5年()、瑞龍院日秀は善正寺を岡崎(現岡崎)に移し、この時に秀勝の墓も移された。 しかしこれは豊臣秀次の墓として誤伝されているようで 、豊臣小吉秀勝に碑銘の残った墓はない。 関連作品 [ ] 小説• 『桃山乱戦奇譚 天下人の血』(学研歴史群像新書) テレビドラマ• (、NHK大河ドラマ、演:)• (、NHK大河ドラマ、演:) 脚注 [ ] 注釈 [ ] []• 叙任時期は明らかではない。 於次秀勝との混同という説もあり。 の養子。 諱は「秀俊」とする史料もある。 小吉秀勝より1歳年長と推定されている。 ただし『』では亀山城主は天正13年7月よりとされている。 個人蔵・寄託。 片山正彦(京都光華女子大学真宗文化研究所学外研究員)は9月の段階で於次秀勝の病が重く、彼の死去を隠す、あるいはそれが公になることを少しでも遅らせる意図があったのではないかとし、その背景に於次秀勝に養女を嫁がせたばかりのへの配慮があったのではないかと考えて、それで於次秀勝の存命中に小吉秀勝を名乗らせたのではないかと推測している。 江は天正2年に信長の意向もしくは天正11年に秀吉の意向で家臣に嫁いだとされるが、天正12年(1584年)に一成は没落しており、離縁もしくは破談となっている。 なお、江と佐治一成の婚姻は婚約のみで、秀勝との婚姻は実質的に初婚であったという説もある。 なお、同日条には吉田兼見が御次(於次秀勝)の見舞いをしたことに関する記述もある。 躑躅ヶ崎館(甲府市武田)は戦国大名武田氏の居館で、武田氏滅亡後は織田氏・徳川氏によって引き続き支配拠点として利用されていた。 徳川氏時代には城下南方の一条小山に総の新城が築城され(甲府城)、秀勝期にも甲府桶大工勝村氏に「当城用所」を命じた文書が残されている。 この文書から秀勝期にも築城が開始されていた可能性が考えられているが 、この「当城」は武田氏館を指すとする説もある(なお、甲府城の普請は加藤氏、浅野氏により継続され慶長年間には完成をみたと考えられている)。 この頃、秀吉は甥の秀次に対して、三国分割計画を示しているが、これによると高麗には秀勝か宇喜多秀家を配すると知らせており、つまり秀勝は朝鮮統治予定者の最有力候補に挙げられており、秀吉の天下統治構想に秀勝が、血族としてとりわけ重要な役割を担っていたことが知られる。 出典 [ ] []• , p. 141-147• , p. , p. 278, 渡辺良次郎「豊臣秀吉家族事典」. , p. 162-165. 『江の生涯』2010年。 『戦国三姉妹物語』 角川書店、1997年。 , p. 164-165. 「羽柴氏下賜と豊臣姓下賜」『駒澤史学』49号、1996年。 , p. 『山梨県史』資料編8 近世1 領主、1997年。 「甲府城の史的位置-甲斐国織豊期研究序説-」『山梨県立考古博物館・山梨県埋蔵文化財センター 研究紀要9 10周年記念論文集』1993年。 数野雅彦「甲府城築城関係史料の再検討」『甲斐の美術・建造物・城郭』羽中田壯雄先生喜寿記念論文集刊行会、岩田書店、2002年。 天正18年9月付羽柴秀勝黒印状(山梨県立博物館寄託「右左口口遊文書及び関連資料一括」)• , p. 137-138. 参考文献 [ ]• 「豊臣秀勝」『』日本学術普及会〈歴史講座〉、1919年。 編 『豊臣秀吉のすべて』 新人物往来社、1981年。 『太閤家臣団』 新人物往来社、1971年、65-68頁。 片山正彦「豊臣政権樹立過程における於次秀勝の位置づけ」『豊臣政権の東国政策と徳川氏』思文閣出版〈佛教大学研究叢書〉、2017年。 (初出は 天野忠幸・片山正彦・古野貢・渡邊大門編 『戦国・織豊期の西国社会』 日本史史料研究会、2012年。 『誰も知らなかった江』毎日コミュニケーションズ、2010年。 関連項目 [ ]•

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