巨砲主義。 [B! ロシア] 米「経済制裁するぞ」→露「やってみろ」 露「売った10兆円分」→米「え?マジ?」 : 大艦巨砲主義!

大艦巨砲主義とは (タイカンキョホウシュギとは) [単語記事]

巨砲主義

「大艦巨砲主義」ということば 「大艦巨砲主義」ということば 「大艦巨砲主義」ということばは、実は 日本語にしかないのではないか。 その訳語としての表現はいくつかある。 「大艦巨砲」は [big-gun, big-ship] または [big-ship, big-gun] で、それにつく「主義」の方は theory, policy, ism, orthodoxy, strategy, さらには syndrome などもある。 いずれにせよ、ひとつの決まり文句として「これ」という決まったものがあるわけではない。 ネットにおいてそれほど広く見られる表現でもない。 フランス語版、ドイツ語版も同様である。 Google 翻訳を使ってポーランド語も見てみたが、相当する語句はなさそうだ。 そもそも「大艦巨砲主義」とは、 「a. 巨砲を備えた戦艦を海軍の中心戦力、主力とする軍備思想 b. 戦艦同士の艦隊決戦によって戦争の帰趨を決しようとする軍事思想 c. より大きくより大口径の砲を積んだ戦艦を建造しようとする建艦思想」ということだろうが、これを ひとことで表す英語の表現はないように思う。 では、 日本語において「大艦巨砲主義」ということばはどのようにして生まれてきたのだろうか? 「国史大辞典」の「大艦巨砲主義」の項は、出典が野村実・外山三郎・池田清と、すでにこの語が固まってしまったあとの世代の人なので、淵源を探るには用をなさない。 「日本国語大辞典」には「大艦巨砲主義」の 項目はない。 「大艦」の項はあり、1869-71年の 「西洋聞見録」村田文夫 から引いた例として 「故に彼の大艦を製し、巨砲を鋳り、」という一節が載っている。 漢文調の対句として「大艦」「巨砲」の一対はあったらしい。 (該当個所は p260) さらに調べると、「大艦巨砲」はなんと 古賀侗庵とうあんの「海防臆測」(1838、「花燃ゆ」の第一話に出てきたアレ。 )にある語だそうな。 ただ、推察するに、これらは「海に大艦を浮かべ、陸に巨砲を備える」的な感じの対句であり、大戦艦に巨砲を載せる、という意味ではなさそうだ。 「大艦/巨砲」の対句は、 佐久間象山も書簡の中で用いている。 すなわち、 「彼れに大艦あらば我も亦た大艦を作るべし、彼に巨砲あらば我も亦巨砲を造るべし」(嘉永六年)。 から孫引き。 検索すると、他にも幕末の用例がいくつかヒットする。 「当今国家武威を震耀し 大艦を造り巨砲を製し防禦の実を専務とする時に於ては、数理に熟せざれば其功を得べからず」「西算速知」福田理軒、安政四年 これは幕末の算学者が書いた西洋数学の手引書である。 こちらは。 このような例を見るに、この対句は、幕末の洋学者の間ではすでに一般的な修辞だったのではないかと考えられる。 こういった幕末の用例を除いて、近代海軍の文脈での「大艦巨砲主義」を探ると、時代は一気にド級艦時代、大正年間に飛ぶ。 「大正ニュース事典」では、第一次世界大戦のニュースの中に「大艦巨砲主義」の文字が見つかった。 時事新報 1915. 7(大正4) 「すなわち独逸は、毎年戦艦及び巡洋戦艦二隻乃至三隻ずつの起工に対し、潜水艇はわずかに六隻ずつの起工に過ぎず。 これ云うまでもなく 大艦巨砲主義を表明するものにして、今日の如く潜水艇の活躍に期待しあらざりしを証するに足るものなり。 」 これ以降、神戸大学の新聞データベースなどにも、主にワシントン軍縮条約がらみの記事に「大艦巨砲主義」の語は散見される。 大阪朝日新聞 1919. 9 大正8 「右は帝国海軍が 大艦巨砲主義を採用したる結果将来建造する超弩級艦は四万噸級に増大すべく之が速力の関係上二千五百馬力以上の機関を要すれば従来の如く石炭を使用燃料としては積載不便を感じ……」 しかし「明治ニュース事典」をはじめとする明治期の新聞記事には、「ドレッドノート」がらみのものにも「大艦巨砲主義」の語は見られないので、この連語は第一次世界大戦開戦を去ることそれほど久しからざる頃に新聞紙上に登場したものではないかと推察される。 「大艦巨砲主義」に先立って新聞紙上に現れるのが 「大艦主義」ということばである。 これは1914年の新聞にみられる。 報知新聞 1914. 20 大正3 「近年列国の海軍は何れも 大艦主義に傾き独逸も亦た大艦主義を執るに至りたる結果キール運河の拡張に迫られ数年前より其工事に従事したり」 大阪朝日新聞 1914. 16 大正3 「然るに、日露戦争後、世界に於ける製艦技術の突飛的発展と、 大艦主義の激烈な競争とが、遂にドレッドノート型戦艦本位の世の中と化せしめたと思うて居る内に、更に又一歩を進めて、超ドレッドノート型戦艦本位の世の中と化し去った。 」 こうして見てくると、 「大艦巨砲主義」という用語には、まず幕末からの 「大艦/巨砲」という対句の用例が下地としてあった。 それが「ドレッドノート」以来の近代戦艦の発達の時代にいわば「復活」して、 「大艦主義」という用法がまず出現した。 それが、 超ド級戦艦時代の到来、日本海軍への超ド級艦の導入(「金剛」、「扶桑」)を迎えて、世界大戦前後に 「大艦巨砲主義」という用語として確定した。 こういうことなのではないだろうか。 こういう下地の上にできあがった用語ゆえ、日本語圏以外に例を見ない用語が今に至るまで使われ続けているのだろう。 内容は日本海海戦からはやや離れて、戦艦の大型化の傾向とドレッドノートの出現について述べたものである。 この章題を訳すならばまさに「大艦巨砲主義」になるわけだが、はたして当時この記事がどれだけ注目されていたか。 あまり決定的な手がかりではないのが歯がゆいところである。 確かに戦艦の発達について述べてある部分はあるが、原文とを見てみても、具体的にそのような語句はなさそうである。 やはりこの方面に興味のある方は、前から考えておられるのだなあ。 マハンの国において「艦隊決戦 decisive naval battle」という思想すらも、用語としては人口に膾炙したものではないということらしい。 そして、日本における「航空主兵主義」は、井上成美などの主張を見ると、「空母主戦主義」ではなく、かなりの部分基地航空隊にその重点が置かれていたものであるが、そういった意味での「航空主兵主義」というものもまた日本独特の概念であるらしい。 アメリカにあったのはであり、「大艦巨砲主義」から「航空主兵主義」への転換ではない。 Apr. 2015 Daimyoshibo 17. Apr. 2015 加筆).

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”大艦巨砲主義”のまぼろし(dragoner)

巨砲主義

大艦巨砲主義(たいかんきょほうしゅぎ)とは、20世紀前半の軍戦略において支配的であった、「でっかい船にでっかい積めばじゃね?」という考え方である。 概要 単純に言えば、「強なを搭載し堅固な装甲によって防護された『の』である『』の質と量が上戦の優位を決定する」という思想である。 ただし、その思想のは20世紀のうち前半だけであった。 20世紀初頭、16年にが建造した級が大艦巨砲主義の先駆けであるとされる。 本級は複数配置された同一口径のを一元的に管制する方式を採用し、従来のとは較にならない戦を得たことに加え、蒸気タービンの採用による優れた性も併せ持っていた。 また防御についても列が(そして自身も)運用・建造中のを一気に陳腐化させ、列はに肩るを「(ド)級」(の字は)、駕するを「(ド)級」と呼ぶようになった。 こうして、列強は大建艦競争の時代に突入していくことになる。 自己のを防ぐだけの装甲を持ったは、より優れたを持つをもってしか撃破し得ない。 つまり、強ながどれだけ保有するかが的となり、実際に火を交えることなくそのの持つ軍が明されると考えるに至った。 以後、の列強各では建造が猛な勢いで始まることとなる。 建造されるたびに艦のは大きくなり(と、同時に口径も増大し)、財政を転覆させかねないほどの建造費を必要とするにいたってようやく列強各は頭をて11年、軍条約による中断期間(軍)を迎えることとなる。 7年の条約明け後もこの建造が続くかと思われたが、その直後に発生したにおいて大艦巨砲主義に基づいて建造されたの優位性は、発展著しい及びに覆されることになった。 またこれら一連の流れをもって、の成功経験に基づくものの時勢にそぐわなくなりつつある手法などを揶揄する言葉として「大艦巨砲主義」が使われる場合がある。 大艦巨砲主義の終焉 一般的には、大艦巨砲主義は軍戦略の兵義への転換に伴って終焉をみたとされる。 しかし実際には、それ以前に大艦巨砲主義の没落は始まっていたとする解釈もある。 第一次大戦においてとの・隊が入り乱れたジュッンド(ユンド)戦において発生した予想だにしない中・遠戦は双方に多大な損をもたらした。 それまで巨費を投じてこつこつと培ってきたがわずか数時間、一日の戦によりの藻と化す。 このに衝撃を受けたのか、軍は艦隊保全義により傾倒し、艦隊は「だけ」であれば良いと考え、などを使った戦に注することなる。 対するはの戦に対して上護衛戦を行っていくことになった(このにはととの戦差があまりにも大きかったということもある)。 これはの戦いの有様が など様々な点 を必要、あるいは阻するための となったため、局所的な上支配権を獲得するための手法として「戦」という方法がに合わなくなってきたととしてみるべきかもしれない。 またジュッンド(ユンド)戦の戦訓は、「遠撃戦における大度で落下する弾を防ぐためには、より一層の装甲化が必要」ということであり、結果としてに対する建造・維持の増大をさらに促した。 が実戦ではあまり意味のない食いであるという認識を各の軍関係者がどれほど共有していたかはともかく、財政が傾くほど巨額な経費がかかるの建造を抑えるべく、戦間期にの建造は条約によってされることとなり「軍」と呼ばれる時期を経て、へと至る最後の建艦競争に突入した。 もっとも、この時点での攻撃手段であるによる攻撃というのはに達しようとしていたのもである。 すなわち、どれだけ巨を搭載したとしても観測できる見通しは は丸いので 線を越すことは出来ないというにぶつかることになった。 観測できないでの撃を可にするため、に弾着観測用の観測機を搭載しようという手法も生み出されたが、当時芽しつつあったの集中運用プム、すなわちに搭載されている艦載機によって阻されることは眼に見えていた。 ここで諸外の軍関係者の中から、観測機を蹴散らすためのにを積めば、より遠での攻撃が可になるのでは? というに達する者が出てくるのは時間の問題だったといえるだろう。 もっとも、この時点では攻撃によって行動中のを撃破することが可だとはまだ確信されていなかったのであるが。 が始まると、ト襲、次いでにおいて、戦がを撃破ることが明された。 さらにはで航行中の・が攻撃によって撃破される事態に至り、兵は大艦巨砲主義に対する優位をした。 「が戦を発揮するための偵察役」あるいは「偵察役である観測機を撃破する」ためであった機動部隊の地位が、従逆転したのである。 がを建造したことを「時代錯誤な大艦巨砲主義」と評することもあるが、建造計画が立案された当時はまだが流ではなかったので、注意が必要である。 結果だけを見るならば、に先見の明がなかったとも言える(そのが前述のでの有性をに明してしまったのがなんとも皮)。 余談だが、級三番艦「」は建造中にからに変更されている。 一方、諸外ではどうだったかというと、ではの政策による一つとして、建造計画がしていた。 雇用対策、すなわち共事業としての(だけではなくまで)量産が行われていたわけで、もはやの差はいかんともしがたいものがあり泣ける始末である(がに対して優越することが出来たのは、開戦の有に関わらず年前後だというのがの判断で、このがあったからこその「一年、二年であれば…」という有名な発言につながっている)。 もっとも最後のは大艦巨砲主義というよりはの級を意識したようなのとして誕生している。 では級が前に建造開始されたものの、生き残った四隻はが終わるとあっという間に訓練艦、予備役艦艇扱いとなってしまった。 中に建造されたのは級だけ。 さらに言えば級の建造的も未使用の身があったので、もったいないから…というもので、建造されたのは一隻にとどまる(ただしの技術のを結集して作られたのはいうまでもない)。 しかし、大艦巨砲主義が覆されたとしてもの存在意義が否定されたわけではない。 その撃を生かして沿撃で活躍したもある。 (・ヘンダーソン飛行場撃)、ガングート級(攻囲)、によるノディ上陸、やなどの上陸戦で有効な撃を行っている。 陸軍が運用するのはせいぜい口径mm~mmであり、これはのといってもいい。 かたや級のはmm~0mmという大きさである。 がいかに巨大なを扱っているかわかるだろう。 による沿撃の成果は一個師団に匹敵する、という報告があがるのもむべなるかな、ということだ。 大も、はをのたびに沿撃用に引っり出し、後にやを搭載するを。 はどこのウォーンダーだ。 もっとも、当時はを集中運用するプムがなく、「引っりだすならついでに乗せちゃえば? 」みたいなだったとは思うが…そのもはすべて退役し、記念艦やとして余生を過ごしている。 余談ではあるが、最大の功績と言えばと沈黙を世に送り出したことである。 大艦巨砲主義とロマン に強く、堅く!を志向する大艦巨砲主義は、々の意識の単純な部分に強く訴する。 そもそも、つるん、ん、な()よりも豊満でメリの利いたの構造そのものにに惹かれてしまう部分があるのは否めない。 いや、両方好きですけど。 「あれ、に飛行甲つけたらじゃね?」 「あれ、にでっかい積んだらじゃね?」 とが膨らんでしまった人のために、「こうくうせんかん」というものがある。 かつてが保有していたが、、が「重」として。 巨というにはものたりなくもあるが、せっかく予算を組んで建造してもらったのだから、を楽しんでみて欲しい。 個人的な領域における大艦巨砲主義 強く、硬く、太く、長く、多く、そして… よりもい! ・・・という大艦巨砲主義の理想を全に達成することは、的には様々な制約からであることはの教訓からみてである。 … 関連動画 関連コミュニティ 関連項目• (大艦巨砲主義万歳)• :[]大艦巨砲主義を掲げるの一つ。

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大艦巨砲主義 (たいかんきょほうしゅぎ)とは【ピクシブ百科事典】

巨砲主義

海戦はによって決せられるとし,,破壊力ともに大きい巨砲を積んだ高速で防御力の強い巨艦が勝利をもたらすという戦略。 近代的なのとともに起り,太平洋戦争中の,マレー沖などの戦いで航空母艦中心主義が正しかったことが立証されるまで旧日本をはじめ世界の海軍でこの思想が続いた。 大艦巨砲主義に基づいて主要国間でのが起り,アメリカ,イギリスは第2次世界大戦終了まで多数の戦艦をした。 日本は『』『』『』『』をはじめとする戦艦を建造したが,大戦中に建造を中止した。 大戦後,戦艦はほとんど姿を消した。 アメリカは 1980年代に戦艦を復帰させたが,92年3月末日までにそのすべてが退役した。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について の解説 …こうした快速の装甲軍艦の威力は,リッサ海戦 1866 ,黄海海戦 1894 を経て, 1905 で決定的に証明された。 日本海海戦でロシアのバルチック艦隊38隻中19隻を撃沈し5隻を捕獲した日本海軍の圧勝から,各国海軍はいよいよ大艦巨砲主義に傾斜,とくに,イギリスのドレッドノートの進水 1906 は砲数,口径,スピードで建艦上の革命をもたらした。 なかでも戦艦は帝国主義時代における国家の威信と力の象徴となり,一国の工業力と技術水準を反映して巨費を投じての激烈な建艦競争が展開された。 出典| 株式会社平凡社 世界大百科事典 第2版について.

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