滑落 死 バラバラ。 男女2人の遺体はロープでつながれ…学習院大山岳部主将みせた自己犠牲の精神 八ケ岳遭難死(1/2ページ)

【閲覧注意】ニコ生配信に富士山山頂から滑落する瞬間の動画がヤバイ…

滑落 死 バラバラ

" 富士山滑落事故。 実際に現場で起きていた事。 皆様、 この度は色々とご心配をおかけして申し訳ありませんでした。 ご存じの方も多いと思いますが、 今回の富士山の滑落事故の際、 偶然にも近くに居ました。 こんな事、 ブログにあげる事も無いと思っていましたが、 憶測が憶測を呼び、 事実とは明らかに違う状況になっています。 その内容があまりにも酷いので、 本意では無いですが、 当日、実際に現場で起きていた事を、 自分なりに書いてみたいと思います。 僕らが遭難PT(以後PT)を初めて確認したのは日ノ出館でした。 PTは既に沢をトラバースして赤岩八合館辺りでした。 次に確認したのは、 見晴館跡を過ぎ大弛沢に入ってからで、 長田尾根の碑を巻くと イメージ 9 PTは既に山頂まで半分近くの場所に居ました。 この時に、 既に報道されている、 何らかの理由で下山してきた女性とすれ違い軽く挨拶。 イメージ 8 少し先行していた、 やまちゃん(以後Yさん)達に合流してボチボチ歩いていると、 山頂方面から氷がバラバラと勢いよく落ちて来る。 大袈裟だが、 10センチもある氷は時として凶器です。 上を見ると、 50m程上まで近づいていたPTが、 氷の斜面をピッケルで掘っている。 ウソでしょ? 止めてもらおうと、 「おーーい!」と声を掛けるが止まない。 距離もあるし風もある。 聞こえないんだと、 登りながら2度目は声を張って呼びかけると、 やっと気が付いたのか止めてくれました。 正確には聞こえるまで「止めて!」って叫んでたという感じです。 危険なので少しルートを外して追いついたシーンを、 偶然動画で撮ってありました。 (11:53) 奥に見えるのがPT。 あの場所で、 何らかの理由でバケツを掘っていたようです。 ご覧の様に、 まだ夏道が出ていたので、 そのまま彼らの方に進み 「こんにちは」「ごめんね」と挨拶をして追い越させてもらいました。 憶測で云われる様なトラブルは無いです。 (彼らの内心は確かにわかりませんが、 この程度でメンタルが崩れたら低山も歩けないハズ) 「しかし何をやってたんだろね?」 イメージ 10 「ザイルを出してたから、危ないからとアンザイレンでもするのかな?」などと、 (ここまでは繋いでませんでした) 4人で話したりしながら登っていると、 10~15分後に、 「落ちた!」とYさんが叫ぶ。 振り向くと、 先ほど追い越した辺りから、 4人が一緒に滑り落ちて行くのが見えました。 ウソだろ! やっぱり繋ぐ為だったんだ。。 その少し前に岩場を登ろうとしていたのを仲間のKさんが確認。 どうも、 硬い斜面を避けて、 岩の露出した方向を登ってきていたらしい。 、 Yさんが、すぐに警察に電話を入れる。 イメージ 7 急いで助けに向かいたかったが、 こんな滑落が起きる位、 当日のこの辺りは氷が硬め。 かと言って下りられない程では無かったが、 (やってる方なら上の画でわかると思います) もしもの事を考え、 一旦登り態勢を立て直すことにしました。 登頂して、 長田尾根、 富士宮ルートも偵察にいったが、 イメージ 1 一番安全そうな富士宮のブル道で下りる事に。 9合半を過ぎて、 御殿場への尾根をトラバースしようとしていると県警のヘリが到着 尾根を越えると丁度事故現場。 イメージ 6 近寄ると、 先ほど途中下山した女性と、 単独の登山者さん一名とで救助作業中。 一人は既に心肺停止状態だという。 残りの3人は意識はあるが、 とても起きられる状態ではない感じ。 肝心のヘリは、 画でわかるようにガスと安定しない気流で近寄れない様子。 保護シート、ツェルト、ダウン、ブリザードバックなどで保温する事位しかできないが、 声をかけながらできるだけ介助をしガスが晴れるのを祈る。 が、 ガスは晴れるどころか増してくる。 厳しいかな? 数十分後、 「ヘリは撤退」とYさんから聞く。 万事休す。 要救助者を救って欲しいと願う必死の要求でした。 (ここでは雪山遭難で救助要請するなとかは無しでお願いします」) そのうち上空には、 はるか彼方を旋回するヘリが数機。 イメージ 2 クソ!報道か。 すでに我々が現場到着から1時間が過ぎ。 寒さが襲ってくる。 15時が撤退ラインだなと思っていると、 Yさんからもその合図。 それまでに何とか! イメージ 3 だが、 祈ってもガスは晴れない。 そうこうしていると、 女性が歩けそうと言う。 よし! ガスは夕方には晴れるハズ。 このままでは終わらないだろう。 あとは救助隊に任せて、 歩ける女性と一緒にみんなで下山する事にしました。 イメージ 4 時刻は14:30頃。 しばらくするとガスに突入して、 上の様子は見えないけど、 我々が下りてもヘリの音が止まない。 それどころか、 低空でのものに聞こえる。 きっと上は晴れたんだ! 絶対に救助作業をしてるよ! なんて話していると、 ガスが晴れ イメージ 5 本当に救助作業をしているヘリが見えた! やったね! これでみんな助かるよ。 怪我をした女性も 肩を落としていた付き添いの女性も少しは元気が出たよう。 こっちも頑張って下りなきゃ。 だが、 実際はそんなに甘くない。 現場は御殿場ルートだからね。 途中で6合辺りで暗くなる前に食事をとり、 ヘッデンを点けてゆっくり歩く。 ゆっくりゆっくり6時間近く歩き、 20時頃御殿場の駐車場に到着。 要救助者を救急車に乗せて完了。 かと思ったら、 警察の事情聴取・・・ それはまだよいとしても、 報道の厚かましさと言ったら・・・ 煌々とライトを向けてカメラを回す。 ヘリといい 地上班といい まったく好かんね。 真実なんて報道できないのに。 それは今回の消防ヘリのミスでも明らか。 落としてしまった(これも確かでは無いが)シーンも間違いなく撮っているハズだけど出ないでしょ。 でも、 ヘリのミスが本当だとしても、 オレは、 救助隊は責められないというスタンスです。 あの状況で飛んで作業をしてくれただけでも感謝かなと。 間違いなく生きていた彼なのでとても残念だし、 せっかくピックアップしたんなら助けて欲しかったけど、 難しいけど、 今回は飛んでくれた事には感謝しないといけないと。 そもそもが自己責任の世界なんだから。 以上、 これが今回の実際の現場の状況です。 文才も無いので伝わらなっかったかと思いますが、 少しでもご理解いただけたら幸いです。 今回の事故の皆さん、 誰一人泣き言一つ言いませんでした。 オレだったら、 あの極寒の中にあの怪我だったら悲鳴の一つも上げたと思います。 ヘリで救助された男性も、 残念ながらそうで無かった男性も、 自力下山の女性も、 (この子はなんと骨盤骨折だったそう) 不運にも事故は起こしてしまったけど、 皆さん立派な方でした。 「自己責任」 あらためて考えています。 " — via から.

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富士山滑落死、一気に900m下 アイスバーン状態:朝日新聞デジタル

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Untitled Document 鳴沢岳遭難事故報告書を読んで 2010. 1990 年代に厳冬期の黒部・丸山東壁にルート開拓で活躍した伊藤達夫が、二つ玉低気圧の襲来が事前に予報されていた中で、「庭」としてきた後立山、それも技術的にはさほど困難でないルートで遭難死したのである。 しかも、同行した二人も死亡が確認され、その中には京都府立大学山岳部の現役主将を務める女性も含まれていた。 さらに、遭難者の遺体がバラバラに発見された事も伝えられ、「どうして悪天の中で突っ込んだのか」「何があったのか」と疑念が広がった。 この事故からほぼ一年をへて京都府立大学山岳会 OB 等で組織 は、京都の岳人の協力を得て外部有識者による調査をへた事故報告書を刊行された。 この報告書は各方面の関心を呼んで第一刷はすぐに配布完了となり、私が入手したのは増刷した第二刷である。 報告書では、事実として確認できたこと、調査してもわからなかった事などが整理された上で、遭難事故の原因とその背景について検討が行われている。 しかし、このようになったのには、パーティシップの問題がある。 というものである。 特に、伊藤のリーダーとしての資質にかかわっては、 2008 年 5 月に今回の事故で亡くなった安西と一年生を連れたトレーニングにて、伊藤が先行して「置き去り」にした結果、安西がトレースを見失い、二人が悪天候下でビバークした事件が報告されている。 この時の伊藤は、「体力を消耗した」として救助活動にも加わらず、一人でテントに戻ってしまう。 伊藤は、平謝りに陳謝したとの事であるが、この行動は今回の遭難での行動パターンと酷似している。 この時、この問題をもっときちんと総括していれば、今回の遭難は防げたのではないか、との関係者の無念の思いが報告書からは強く伝わってくる。 この伊藤の 2008 年 5 月の行動、そして今回の不可解な行動をどう理解するかについては、報告書は伊藤の個人的な資質と登山観に大きな原因を求めている。 そのため伊藤との京都府立大学山岳部との山行についても、「伊藤がリード、学生はビレイ・ラッセル・ボッカ役」の事が多かったとの事から、「伊藤は相手がほしかっただけ」との否定的な評価がされている様に思われる。 また、伊藤が京都左京労山から脱会して「てつじん山の会」を結成した事についても、「独善的・個人的な登山観」を原因として捉えているようである。 しかし、伊藤に関するこうした評価は、ほかならぬ報告書に証言として紹介されている、かつて伊藤と山行を共にした OB の話から浮かんでくる人間像と著しいかい離がある。 「テントの中で必ず高層天気図をとっていた」「先行しても要所で待っていた」「軽量化に厳しく、用具が古かったり適切でないと買いかえる様に指示された」「パートナーがもう行けないと言えば、撤退をいとわなかった」等が卒業生の話として共通している。 そこには、「独善的で他を顧みない」人間像とは対極の姿がある。 登山時報 2010 年 7 月号に紹介されている京都労山・教育遭対部での、最近の伊藤が果たしてきた役割も、事故防止に熱心に取り組む姿として、上記、 OB たちの回想とつながるものを示している。 それにも関らず、伊藤は現実に遭難しており、パーティの行動については「報告書」がとりまとめた様な現実があったのは事実である。 「どうして伊藤は、このような行動をとってしまったのか」が、報告書では納得できない問題として残されている。 確かに悪天候がなければそう難易度の高いコースではなく、技量以上の山ではなかったのかも知れない。 しかし、メンバーの山行歴を見ると、安西はビバーク体験もあり、総合的な登山技術の習得に熱心であったことがうかがえるが、院生の櫻井の場合にはどうだったのだろうか。 櫻井は、積雪期登山にほとんど経験がなかった。 こうしたメンバーを連れて雪山に行く場合に、メイストームという条件でも可能と考える事はいかなる判断があったのであろうか。 また、これは退避技術やその適用のための知恵をどれだけ持っていたのだろうか、という事でもある。 実際に伊藤以外のニ名は、荒天下の稜線で持参していたフリースを着ないままに亡くなっている。 下部では暑かったとしても、風の強い場所に出る前に一枚着込むのは当然の事ではなかっただろうか。 報告書では櫻井がルンゼ上部を滑落し、その後、上がり返す気力も無くなって絶命したものと推定している。 低体温症が進行して意識がもうろうとした中で行動して滑落したとして、そうなる以前に回避するための行動が意識されていたのかどうかが疑わしい。 単なる登攀技術ではなく、山に安全に登る総合的な知恵と技術がどれだけ習得されていたのかが、大きな疑問となる。 安西が「どうしても伊藤先生に追い付かねば」と行動するのではなく、自分の状態を客観的に判断して、「自分では追いつけないから安全な場所で幕営しよう」と考えられる自立した登山者であれば、少なくとも全員が亡くなってしまうことは避けられた。 パーティシップの基本は、リーダー絶対とか集団行動絶対であるよりも、一人一人が自分を守りつつ、その上でパーティの仲間を気遣う所にあるのだと思うのである。 行動面から見ると全体で最も遅れ気味だったと思われる安西が、テント・スコップを持参して荷物が 14-15Kg と重く、伊藤が 10Kg 程度と最も軽くなっている。 岩壁の登攀であれば、トップを行くリーダーを軽くする根拠がある。 しかし、西尾根はそうしたコースではない。 出発前に安西の荷物を研究室で見て、伊藤たちが「何がこんなに入っているのかね」と言っていたと書かれているが、軽量化に失敗した結果としての荷物であるのか、それともテント等を安西がすべてもったためによる重荷であったのかは、一つのパーティのあり方にかかわる問題として疑問である。 もちろん、安西は女性とは言え若い現役山岳部の主将であり、かなりの体力を持っていたのだろう。 だが、この山行経過から考えると、パーティの中で安西が多くの荷物を持った事が全体のスピードを落とすことにつながったのではないか、とも思われる。 尾根歩きで、これほど共同装備の分担をよせるべき、合理的な理由が私には思い当たらない。 もちろん、長年、黒部での登攀では大学生がボッカを担当していた事も背景としては指摘できるが、ハードクライムから尾根に転進した中で、このような分担である事は不合理であったはずである。 ハードクライムを退いて後に、伊藤がどのようなトレーニングや山行をしていたのか、その全体像は報告書では触れておらず、伊藤が府立大と行った山行が記録されているのみである。 しかし、本の執筆に熱心に取り組み、片や本業の研究者・教育者としても熱心に取り組む中で、「体力トレーニングは各自」に委ねられていた伊藤のスタイルでは、 50 歳を超えての体力全般の低下は避けられなかったと思われる。 過分な憶測かもしれないが、こうした場合に、伊藤にとっては自分の体力低下は、逆に安西や櫻井への過大評価ともつながりやすいのではないか。 「体力の落ちた自分でも動ける。 若い彼らならば大丈夫だ」と考えたとしても不思議ではない。 実際、安西は 2008 年 5 月の「置き去り」の際には、荒天の中を木の上に座ってかぶったツェルトで耐えている。 「安西ならば耐えられるだろう」と考えなければ、伊藤がトップで進む事に「自分のペースで進めるので楽だ」という面があったとしても、メンバーに対する確認なしにどこまでも先行してしまうことはできないのではないか。 伊藤が遭難当日、どこまでも先に行動してしまった事は、自身の体力低下とそれに他の二人への主観的な過大評価に支えられていたのではないか、と思う。 だが、私は報告書では、ある特定の「登山観」が、それとは異なる登山観を持つ伊藤に対する人格否定的な評価を生み出している様にも思われるのである。 それは、委員長の平林氏が書いている登山の歴史と登山観の変遷についての記述である。 そもそも事故報告書にこうした文があることは、異例であろう。 しかし、あえて平林氏は今回の事故を考える時にどうしても必要であろうと考えた、と報告書にはある。 論点は多岐にわたっているが、特に山岳部についてはかつての「団体的登山」観が失われた中で、「個人主義的登山」観が広がり、今回の事故でも自分の事のみしか顧みない行動がとられるようになる背景となった、という趣旨の様である。 しかし、私にはこの「団体的登山」とか「一校主義」との登山観そのものが、特殊なイデオロギーではないのか、という疑問を拭い去ることができない。 人の価値観に多様性があり、生き方に多様性があるのと同じく、登山と言う営為にも多様性がある。 「団体主義」や「一校主義」も一つの登山観としてあり、歴史を振り返けばある時期に日本の登山史に大きな役割を果たした事も事実であろう。 しかし、その価値観が唯一の様な捉え方は、現代には受け入れられないと思われる。 伊藤が「てつじん山の会」を創設した経緯の詳細は不明である。 しかし、こうした山岳会からの脱退と別の会の創設は、社会人山岳会では決して珍しい事ではない。 労山でも、県連盟役員が自分の所属していた会と別の山岳会を創設する、という事はしばしば見られる。 また、日本の登攀と登山の歴史を振り返れば、むしろ、社会人山岳会の分裂や設立と共に、アルピニズムの新たな発展がとげられた事も多かったのではないだろうか。 さらに言えば、「てつじん山の会」も労山京都府連盟に所属しており、伊藤は前述した通り府連盟の教育・遭難対策活動に積極的に関与してきた。 「一校主義」的な価値観では、こうした事実は理解しがたいものであるのかもしれない。 だが、報告書が伊藤の山岳会の創設を「独善的・個人主義的」登山観の産物と決めつけるのは、少なくとも私には独断的にすぎると思われる。 そもそも山に登るという行為は、山に関係のない人たちには多くの場合、まったく理解しがたいものである。 何の利益にもならない「登る」という営為に自分の生きることを見出す者は、世間からは「理解できない人」であるかも知れない。 だが、私たちが山に登るという営為は、その人の人格の一部なのであり、その人そのものを表すものだ。 だから、山に登る人の多様性は、登山観の多様性とも連なっている。 そうした多様性を許容できないで、ある特定の登山観をもって他を切り捨てる事は、その人の本質にかかわって行われる登山という営為の豊かな多様性を貶めるものである、と思われる。 特にそれが団体至上主義的な色彩を帯びる時、今日の時代においては、山に登ろうとする人々の多くから見向きもされない存在となるのではないだろうか。 大学山岳部の現状を見据えつつ、かつての大学山岳部黄金時代がそうであったように、若い世代が何ものにもとらわれずに自由に自分たちの新しい登山を発展させていく事を、私はむしろ期待したいと思う。 2010. 7 月 8 日記に追記.

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男女2人の遺体はロープでつながれ…学習院大山岳部主将みせた自己犠牲の精神 八ケ岳遭難死(1/2ページ)

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計画 [ ] パーティーは京都や滋賀の税理士を中心とした10人のグループで、毎年秋に定期山行を行っていた。 このうち比較的経験のある2人がスケジュールを立てた。 旅程では10月7日の夕方に滋賀県を出発。 立山駅近くの駐車場で仮眠をとった後にケーブルカーとバスを利用し室堂に向かい、ここから出発となっている。 登山一日目(10月8日):立山駅 - (ケーブルカー) - 美女平 - (高原バス) - 室堂 - 一ノ越 - - 大汝山 - 富士の折立 - - -別山乗越(剱御前小舎)で宿泊。 登山二日目(10月9日):剣岳に往復するグループと周辺を散策するグループに分かれ行動、合流後に雷鳥平(ロッジ立山)に移動し宿泊。 登山三日目(10月10日):雷鳥平 - 室堂 - (高原バス) - 美女平 - (ケーブルカー) - 立山駅 10月8日 [ ] 付近にがあり、その影響で一時的に冬型の気圧配置となることに加え、中国から寒気団が南下し日本海側の山では大荒れの予報が出ていた。 これに反し早朝は快晴となった。 パーティーは午前8時45分ごろに出発。 既に天候が悪化し始め、一ノ越山荘到着時には既に吹雪になっていた。 休憩後に吹雪が強まる中出発したが、疲労の出た人間が遅れ始め2グループに分裂。 雄山到着時には標準コースタイムの倍近い時間がかかる状況になっていた。 ここで既に疲労の為食欲不振やめまい、痙攣を起こすメンバーも現れたが、この時点で中止の判断は下されず、昼食後に登山は続行された。 午後1時半に雄山を出発。 大汝山付近で再び2グループに分裂し、後のグループ6人はばらばらになり、通常なら雄山から3時間程度で宿泊予定地に着くところが2時間経って半分程度までしか進めない状況であった。 この時後ろからやってきた別パーティーの2人が心配し声をかけるが「1時間くらいで下ろしますから」と救助要請は出さなかった。 一方、先行した4人は雷鳥平へ下山する大走りコースに間違って入り込んだ後に引き返し、分岐点で後続の6人を待つことになる。 全員が集合するまで40分ほどかかり、この時点で1名の意識が混濁し自力歩行できない状況に陥った。 ここでようやく救助要請を出すことを決定する。 午後5時、体力の残っている2人が最寄の内蔵助山荘に向かうが、吹雪で道を見失ったため剣御前小舎に目標を変えて進行。 ところが日没と吹雪でまたも進行方向を見失い午後8時30分に別山の山頂に到着。 ここでビバークする羽目になる。 10月9日 [ ]• 別山山頂でビバークした2人は午前3時半ごろ出発し剣御前小舎に向かうが、途中で力つき倒れていたところをご来光撮影のために別山に向かった剣御前小舎の宿泊客が発見。 午前6時30分ごろ山小屋に収容される。 前日雄山に登ったまま道迷い遭難を起こし救助要請が出されていた登山者の捜索を行っていた内蔵助小屋の管理人が倒れている8人を発見。 午前7時50分に天狗平山荘の物資運搬用ヘリが到着したものの、既に6人が死亡しており、残る2人も病院に搬送後死亡、死者は8人となった。 事故の原因・要因・背景 [ ] この遭難事故は「気象遭難」に分類されるものであり、(天候判断のミスおよび撤退判断の遅れ・欠如などにより)厳しい気象条件下に晒される状態に陥り、を引き起こしたことが主な要因である。 事故の起きた10月8日は早朝には、快晴だったとはいえ荒天の予報が出ており、周囲の山小屋は宿泊客に停滞か早めの撤収を呼びかけていた。 メンバーは顔見知りであったがリーダーを特に決めておらず、そのため撤退の判断を下し、指示を出せる人物がいなかった。 また体調が悪化しているメンバーがいたにもかかわらず、途中で追い抜いた登山者に救助要請を行わなかった、ビバーク時に風を避ける場所に移動せず吹きさらしの場所にい続けたなど、最悪の事態を避ける機会はあったにもかかわらず、すべてそれを逃した事が指摘されている。 メンバーの装備に関して、10月の3000m峰では不十分な装備であることが指摘されている。 ゴールデンウィークと秋の連休時は、天候によって真夏のような暑さにも真冬の寒さにもなる両極端な時期で、最も注意を要するとされていた。 しかしメンバーのほとんどが軽登山靴だったほか、一部のメンバーは綿のズボン、ビニールの雨具など間に合わせで済ませていた。 一方、救助要請に向かい一命を取り留めた2人は革の登山靴に防水透湿素材の雨具、ウールの手袋などを所持していた。 この遭難に対し、は対談で「ロープウェーやバスでアプローチが短くなったことで、普通なら行けないはずの所にズブの素人がいきなり入れるようになった事が原因」「本来ならばそこまで近づけない人たちばかりが近づいて遭難が起きた」と分析している。 脚注 [ ] [].

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