壱式陸攻。 Wikizero

彗星一一型《壱》阿部善次 大尉機

壱式陸攻

一式陸攻を見学に山梨県へ行ってきました。 ここ、河口湖自動車博物館は世界で唯一、現存する一式陸上攻撃機(本物)が 見学できる場所です。 現在、胴体と尾翼の修復まで終わり 残りは主翼のみとなりました。 格納庫の隅に展示してあります。 一式陸攻は「中攻」とも呼ばれ、と並んで 先の大戦の主戦力となりました。 それにしても、 75年も前にこんな大きな飛行機を2400機以上も製造した 日本は凄い。 それらを必死に支えた国民の底力に敬意と 感謝を表する次第であります。 河口湖自動車博物館飛行館へ 河口湖自動車博物館の別館「飛行館」は8月のみ営業開館し 見学できる。 それ以外の期間はレストア作業に専念しているようだ。 8月もおわりに差し掛かった頃、出かけたが、午前中の開館直後にも かかわらず、多くの人が訪れていた。 いきなりだが、入口に掲げてある撮影禁止の注意書き。 ケータイ(携帯)でのみ撮影が許可されている。 三脚、自撮り棒は もちろん、一眼レフ・コンパクトデジカメに関わらず、一切のカメラは持ち込み 禁止。 i-padも禁止。 なぜデジカメは禁止で携帯だけOKなのか? こういう理由らしい。 館長さんだって本来こんな注意書きしたくないだろうに、 携帯だけでも撮影できるなら有難い!自分は充分であります。 私は 実物の質感をこの目で見に来たので写真はオマケであります。 まずは機首の風防から見てみよう。 この写真ではわかりにくいが、風防の透明度が高いので 風防越しに内部が細部までよく見える。 とても興味深い。 内部に入れる見学企画があれば、喜んで参加したいのだが これだけでも満足。 風防に使われている。 アクリルは当時、最先端の樹脂素材だった。 爆撃手の席は よく見える。 写真は写り込みがあるが、実際は触れられる距離にあり 細部まで非常に緻密に復元されている。 爆撃の照準を行う際、眼下がよく見えるように、 床はアクリルの透明張りだ。 特にこの展示機「一式陸攻二二型」の風防は一一型より 窓が多くなっており 良く視界が確保されている。 一式陸攻の水平爆撃 一式陸攻は雷撃と爆撃が可能だが、 爆撃(水平爆撃)の場合、敵陣上空へ到達すると 翼も触れんばかりの爆撃編隊を組み、先頭の一番機より 爆撃する。 これを合図に、後続の機が続く。 よって 一番機に最も優れた爆撃手が搭乗する。 単機では命中しない爆撃も、このような複数編隊による 網を形成することにより、いずれかの命中が期待された。 戦争初期には爆撃専門・専科の搭乗員育成プカリキュラム(特修科練習生)を 卒業した熟練の爆撃手が存在したため、命中率は非常に高かった。 戦争後期にはそうした熟練の搭乗員が多く戦死した。 地上爆撃の場合は高度をあがれるだけ上がって 7000メートル程度。 地上目標は動かないから優秀な爆撃種が 一番機に乗っていればそれでよかった。 問題は艦船の爆撃である。 敵艦に爆弾を投下する際は徹甲弾を用いて 3000-4000メートルで行われた。 これは対空砲火を避ける以外に 敵艦船の装甲を貫くために最も適した高度とされた。 これより低い1000-2000メートルでは艦船のアーマーを 突き抜けず、爆弾が跳ね返って表面で爆発してしまいダメージを 与えられない。 戦闘行動中の艦船に爆弾を命中させるのは至難である。 戦艦や空母など巨大な船は舵を切ってから曲がり始めるまで 3分もかかるため、命中しやすかったが、巡洋艦や駆逐艦は すぐに進路を変更できるため、進路を予測しなくてはならない。 こればかりは運であった。 優秀な爆撃手ともなると敵艦の ウエーキ(航跡)のでぐあいで面舵になるか取舵になるか 見極めたという。 一式陸攻の雷撃 一式陸攻の最も最初の活躍といえば イギリス戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルスの レパルスの撃沈が有名である。 雷撃は水面スレスレの20メートルから1トンの魚雷を投下し 大凡30度の角度で入水。 この方法が魚雷が真っ直ぐに進む。 敵戦闘機も超低空では照準できず、後ろから近付いても 20ミリ機銃があるのでボカンとやられるだけで手が出せない。 理想的な高度とされた。 ところが実戦ではプロペラが海面を叩くほどの 超低空で飛行した。 これは敵艦の高角砲が仰角プラス9度まで しか下がらないという先入観から、超低空で接近すれば 敵の弾は当たらないという考えであった。 それで敵艦に突っ込んで行って 魚雷を投下すればあとは逃げるだけなのだが、訓練では 回避行動を取ったが、実戦では腹を見せると撃たれることがわかった。 そこで、雷撃を済ませたら全速力で一直線に敵艦の上空を突っ切る 戦法に切り替えたのである。 結果的にこのほうが被弾率は少ない。 しかし回避行動もせず敵艦の真上を突っ切るのだから、その度胸たるや 並大抵でないし、被弾せずに済むか、こればかりは運でしか かわせない。 プリンス・オブ・ウェールスでは 腰まで水に浸かりながら懸命に高角砲を撃つ敵兵の顔が見える。 さすがは伝統のロイヤルネイビー。 敵ながらあっぱれと思ったそうである。 その後、ニューギニアに進出し、連日のように 連合軍基地への爆撃、艦船への雷撃を繰り返すようになると 一式陸攻の消耗は激しくなった。 高い位置にあり、操縦席の様子や計器盤までは見えないが、 全体の配置などはよくわかる。 全て復元が終了した暁には ステップなどを備えて、操縦席が見えるように工夫してほしいと願う。 一式陸攻は原則7人乗り(搭乗員概要) 主操縦士と副操縦士の二人が横並びに座る。 主操縦士が右の席、副操縦士が左の席。 戦中の 日本の飛行機だからそういう並び。 一式陸攻は原則、7人乗りである。 ・主操縦士 ・副操縦士 ・搭発員(搭乗整備員、現在の航空機関士。 機銃兼任) ・射爆員(爆撃・雷撃手。 操縦員兼任の場合あり。 機銃兼任) ・主偵察員(航法士、機銃を兼任) ・副偵察員(機銃を兼任) ・電信員(機銃を兼任) 電信、偵察は兼任するケースが多い。 大戦初期においては 7人全員が、操縦、電信、偵察など全てを一通りこなすことが出来た。 これに編隊の指揮官や同乗者が加わると 8名~10名になる場合、また、戦争末期で 副操縦士が不在で5名で飛行するケースもあった。 一式の搭乗員が機内でどんなことをしていたのか? よろしければ以下もご覧ください。 (一式陸攻の後継で新型の銀河は、これらの仕事の効率化を図り 兼任できるようになって、搭乗員数も3名となっている) 主操縦士が機長を務めると思われがちだが、必ずしもそうではない。 後席に座る偵察員のほうが経験を積んでいたり、階級の関係などもあり そちらが機長となっている場合もある。 これは、二人乗りの艦上爆撃機や三人乗りの艦上攻撃機なども同じで 真珠湾攻撃で九七艦攻に乗っていたある機長(偵察員)によれば 「操縦員は操縦に専念してればいい。 後席の偵察員が見張りや 航法、色んな仕事をして指示を出す方が何倍も大変だった」と 語っている。 これを、ぜひとも上から覗けるようになってほしい。 内装色は三菱系内装色だが、実は一式陸攻の内装色は 諸説あって、ジュラルミン地剥き出し、または防錆塗装の青色だったとも 色々な説がある。 機体の開口・乗降部は操縦席上と日の丸に設けられたハッチのみである。 入口のハッチがある。 誰がなんと言おうと、美しい。 鮮やかな日の丸に感激する。 格納庫の中で最も兎角 目を引くのだ。 白い縁取りがまたそれを際立たせている。 一式陸攻は大きいので、感激はなおのことだ。 この日の丸の鮮やかさが、一度は戦争に負けた日本が復興し 主権を取り戻し、あらゆる形で再生をとげてきた、私は サンライズに思える。 一式陸攻の生存率 一応、搭乗員全員が落下傘を背負っているものの 一式陸攻の任務は 敵陣へ攻め入ることが殆どの為、 脱出せず、そのまま自爆、7名全員が未帰還となる ケースがほとんどであった。 一式陸攻は、敵艦、敵陣に絶対命中を狙う為 一旦爆撃、雷撃進路に乗ると、動かない。 敵機に補足された場合、機銃で応戦するか、 護衛のゼロ戦に守ってもらうくらいしか生き延びる道はないのである。 とにかく、回避行動はとれない。 戦後、我々がゼロ戦などの、戦闘機の生存者に講演などを 聞く機会はあるが、この中攻で生き残った者は非常に少なく 滅多にお目にかかる機会はない。 幸運中の幸運が重なり 生存した者を除いて、一式陸攻の搭乗員は多くが 終戦までに戦死している。 前方は図面に基づいて 復元された。 電動の20ミリ銃塔。 敵機と遭遇した場合、機銃の扱いは通信士が兼任する。 敵戦闘機に捕捉された場合、 通信士は「敵機見ユ」「敵機ト交戦中」を打電すると、すぐさま機銃座に 飛んで行って機銃に取りつき、戦闘を開始するのである。 実際にこれと同様の位置およびグラデーション塗装が施されて いたのかは謎から、様々な文献や資料から想像するしかない。 復元機はの機体である。 第761海軍航空隊は大宮島(グアム)・サイパン・テニアン・ ペリリュー・ヤップなどを拠点に活躍した部隊で 一式陸攻を主戦力に据えたほか、銀河や彗星などを保持した。 最終的にはマリアナ沖海戦(あ号作戦)で ペリリュー島から連日、マリアナへ出撃、そのほとんどは未帰還となり消耗。 航空機を失った地上員(整備員等)は応急陸戦隊となって ペリリュー島玉砕戦に参加。 中川州男大佐とともに 玉砕した。 土田喜代一氏は第761海軍航空隊の 地上見張り員だった。 復元が完了してしまえばこの部分は見られない。 貴重である。 ゼロ戦同様 主翼は超々ジュラルミンを桁(けた/主翼の軸となるもっとも重要な部分)に アルミ合金が貼ってある。 一式陸攻といえば、航続距離を増やすため、インテグラルタンクを採用した。 このため防御力に乏しく、ワンショットライターと呼ばれたと 言われているが、ちょっと待ってほしい。 ここで「防弾をおろそかにし、命を粗末にするから 日本は戦争に負けたんだ」などと言うのはおかしい。 それは我々が戦後に後出しだから言えることで決して 現代の物差しで語ってはならない。 当時とは価値観が全然違うのだ。 防御というものは、サムライ的考えで卑怯と考えられていた。 当時、攻撃こそ最大の防御だと考えられていたし。 アメリカと戦争してみて はじめてそれが不利なこととわかったのだ。 館是なのか、天声人語(朝日新聞の社説)が館内の目立つところに 掲示されていた。 何はともあれ、戦時中の兵器をこうして忠実に 復元してくれる後世の為に最も重要であるし、ありがたい。 桜花は母機である一式陸攻二四型丁に吊り下げられ、戦域まで飛行し 切り離された後は、単機、ロケット推進で敵艦に突っ込む特殊攻撃機だ。 私はかつて、この桜花生存者の話も聞いたことがある。 私はブラックユウモアでもBAKABOMBでもないと思うが。 桜花は桜花だ。 一式陸攻を見学したところでゼロ戦の見学に移る。 ここは日本で唯一を展示しているところでもある。 関連記事 骨格も展示されている。 骨格が見られるのも全国でここだけ。 ゼロ戦のデザイン段階から理解できる。 後ろはのゼロ戦。 みんな地味だからと素通りしていたが、これこそ展示の真骨頂。 資料としての価値は最高に高いのだが。 写真ではわかりにくいから ぜひ足を運んでみてください。 隼の後ろには戦意高揚のため 印刷されたポスターが展示されている。 こういったものも非常に貴重。 まさか南郷少佐にお目にかかれるとは思わなかった。 これは独名DB-601こと海軍名アツタ、陸軍名ハ40 「彗星」「飛燕」「晴嵐」「南山」に搭載された国産唯一の液冷エンジン。 細部までオーバーホールされたように綺麗で、これ一つだけでも 充分に見る価値がある。 後ろにあるのがこのエンジンに搭載された 過給器(スーパーチャージャー)だ。 関連記事 このほかには中島の最高傑作「誉」エンジンが新品のような形で 保存されれている。 誉エンジンは素晴らしい。 誉エンジンを 搭載した機体はいずれも優秀だ。 「紫電改」に「彩雲」、「流星」「銀河」などである。 機体は細部までよく観察できるようになっている。 あまりにも近いので機体をゴンゴン叩いているオッサンがいたが 頼むからやめてください。 そういうことをするから制約が 増えてしまうんですってば。 オレオ式の脚。 うーむ・・・。 75年前とは思えないほど良い仕事してる。 まさに芸術作品だ。 海軍機に多く見られる特徴だ。 本来、アルミ合金やジュラルミンは腐食しにくいのだが それでも腐ることは腐る。 白っぽくなったり、赤っぽくなっているのが それだ。 可動部は腐食を防止するために腐食防止塗料が塗られた。 後年「青竹色」と言われるようになったが、それは戦後の呼び方で 当時はそんな呼び方は存在しなかった。 写真ではコントラストが少し強く出てしまっていているが、実際はもっと 薄い色だ。 工業従事者なら誰でも知っている「青タック」をやや薄めて ジュラルミン地に吹き付けたようなイメージだ。 すなわち ブルーメタリックとは全くことなる、透明度が高い、ジュラルミン地が 空けた青色と説明すればわかるだろうか。 航空自衛隊の黎明期を支えたF-86。 歴史の勉強ならびに工業芸術鑑賞を終え、見学終了し、外へ出てきた。 どれも素晴らしかった。 また来ようと思う。 カメラには決して収まらない素晴らしい世界がある。 一式陸攻はこの後、主翼を取り付け完成するが 展示スペースが確保できず探しているそうだ。 来年にはぜひとも展示スペースを新設して堂々の一式陸攻を見たい。 記事の内容が参考になりましたらクリックをお願いします! 読者の方々のクリックによって当サイトは維持されています よく拝見しております。 一式陸攻についてラバウル基地に勤務していた美馬氏(航行士)にお聞きした話があります。 印象に残ったのは、「爆撃のときは全員搭乗するが、雷撃のときは飛行に必要な最低限のクルーで飛びます。 機銃担当は載せません」 わたし、「ラバウルからガタルカナルへは千キロもあり、また損耗率も高かったなかで、よくご無事でしたね」 美馬氏「昭和16年、12月8日午後、偵察のため台湾の高雄からマニラ湾のほうへ飛びました。 高雄に戻ってくるともうすっかり暗闇で、飛行場が見つかりません。 そこでサーチライトの照射を依頼して、なんとか着陸。 機外へ出ると上官にぶん殴られました、ははは。 」 この12月上旬、パラオを訪問します。 それまで丁寧に貴方の記事を読み漁るつもりです。 昨年は旅順、今年の春には私の叔父が戦死したサイパンを訪問しました。 ご英霊に感謝感謝です。 投稿: 平瀬英司.

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設計の経緯 [ ] は加盟国の主力艦(・)の保有量に制限を設けたが、結果として廃艦となる新造主力艦を改造した大型空母の出現を招いた。 このことはとを取り込んだの複雑化を招き、空母増勢という新しい方面のを招きかねないことから、では航空母艦の保有量にも制限がかけられた(しかしながら、いったん出現してしまった空母の存在は「敵空母による日本本土空襲」の潜在的脅威でありつづけたこともあり、日本海軍では(昭和10年)のでは空母全廃に持ち込もうとして失敗することになる)。 ロンドン条約のために水上艦の増勢が不可能となったため、長中将は長らく暖めていた長距離雷撃機の開発に乗り出した。 技術部長、技術部主任、のちに参加する総務部員らスタッフを揃え、連日検討した。 このような経緯の中で、陸上基地から発進して敵艦船(主として敵空母)を攻撃できる「」が考案された。 この当時、海軍機メーカーの中で大型全金属機の製作能力をもっていたのは(広廠)と(のちの三菱航空機)であったため、まず広廠で「七試特種攻撃機」(「七空攻撃機」とも呼称される、後の)の開発に着手、次いで三菱に「八試特殊偵察機」1機のが発注された。 八試特偵は(昭和9年)4月に初飛行した後、計画が変更され7. 7ミリ機銃二挺を搭載する「八試中型攻撃機」へと改称された。 さらにこの試作の成果を元に九試陸上攻撃機が計画され、に発注された。 設計主務者は八試特偵と同じ本庄季郎技師。 試作機は10年6月に完成し、7月((昭和10年)7月)に初飛行に成功した。 11年6月2日に九六式陸上攻撃機として正式採用された。 大型攻撃機である九五陸攻は「大攻」、中型の九六陸攻は「中攻」と称された。 技術面の特徴 [ ] 九六式陸上攻撃機 長距離攻撃機として、との低減に重点を置いて設計された。 の採用 - 金星はの技師により開発された。 引込式 - 飛行時の空気抵抗を大幅に削減する。 部分引込式としては日本軍用機での採用第1号(収納扉を有す完全引込式の日本軍用機採用第1号はの)• (ちんとうびょう)の全面採用 - 飛行時の空気抵抗を大幅に削減する。 採用は同じ三菱製のと同時。 金属板の締結に使われるは、金属板表面に丸い頭が出る。 高速で飛ぶ航空機ではこれが空気抵抗の原因となるので、頭の出ない特殊な沈頭鋲を使用した。 この結果、機体表面は平滑に仕上がった。 と帰投方位測定機• 油圧式 - 製(住友金属によるライセンス生産)。 機体重量の半分の搭載量を誇る画期的な航空機だった反面、胴体を「魚雷型」とよばれる絞られた細い形状としたため機内に爆弾倉を設けることができず、やは胴体下に吊り下げるしようとなったことにより、それらは空気抵抗を生じた。 また、爆撃機特有の機首風防を廃しているため前方の防御火力(機首銃座)は無く、特に世界的に1930年代後半以降必須となっていた防弾装備も皆無であるなど、軍用機(爆撃機)としては未だ発展途上の機体であった。 そのため爆弾倉(爆弾倉扉付)と機首風防(機首銃座付)を設け、防弾装備(防漏燃料・タンク。 (昭和14年)の初期量産型(I型乙)の時点で装備)を備えより高速な日本初の本格的かつ近代的な爆撃機は、本機の翌年に制式制定された陸軍のの登場を待たなければならない。 戦歴 [ ] 編隊飛行を行う九六式陸上攻撃機 では航続性能を生かし、設計本来の目的ではない対地に多用された。 まずやのを発進し、を越え、で孤立する現地部隊を支援する爆撃を行い帰還した。 これはとして国内に大きくされ名を揚げた一方で、戦闘機に撃墜されるなど被害も多かった。 その後、基地が本土に進むと、中国奥地のや等の都市を爆撃した。 当時は欧米諸国が本格的な単葉戦闘機を中国はじめ各国に売り込んでいたことから、1937年8月20日に南京を空襲した際には迎撃したに敵損害なしで6機が撃墜されるなど、渡洋爆撃初期から損害が続出していたが、随伴できる戦闘機は存在しなかった。 このため長距離飛行が可能な戦闘機の必要性が真剣に検討され、十三試双発陸上戦闘機、後のの誕生につながった。 なおも陸攻の護衛に活用されたが、それは結果に過ぎず、長距離護衛のために開発されたというのは俗説で誤りである。 太平洋戦争では、(昭和16年)の開戦当日から連日 台湾を発進してフィリピンのアメリカ軍飛行場を爆撃し、短期間にアメリカの航空戦力を壊滅させた。 さらにのでは、と協同でイギリスのとを撃沈し、戦艦に対する航空優位を印象付けた。 しかし、(昭和17年)のでは魚雷が間に合わず、大きな戦果を上げられなかった。 また5月のでは敵艦に命中弾を与えることが出来ず、効果的な対艦攻撃が出来なかった。 (昭和18年)のでは夜間雷撃を成功させ、に2本、とに各1本(共に不発)の魚雷を命中させている。 なお、「」として国民に広く知られる事となるを運搬したのも、九六式陸攻の版であるである。 (昭和17年)にのに二波408人を降下させたのは延べ45機、にのへ二次に渡り700人を降下させたのは28機の九六陸輸であった。 その後は徐々に第一線を後継機に譲り、輸送などの後方任務につくことが多かったが、末期には老朽を押して実用化までのつなぎとしてとを搭載したとして用いられたり、練習航空隊で使われていた機が夜間雷撃を行うなど再び一線に立った機体もまた少なくなかった。 派生型 [ ] 元山航空隊所属の二一型 八試特殊偵察機(G1M1) 九六陸攻の基になった機体。 社内名称「カ-9」。 とされるが、実質的には研究機だった。 「」水冷W型12気筒500馬力発動機を搭載、日本初の自動操縦装置と引き込み脚を装備していた。 胴体形状は九六式陸攻とはかなり異なる。 後に7. 7mm旋回機銃2挺を追加装備し、名称が「八試中型攻撃機」に変更されている。 1機生産。 短時間で開発するため操縦系統にはの標準部品を流用したところ、操縦装置の剛性が不十分なのにかえって操縦性がきわめてよいという結果を出し、これを元に二号二型にあえて操縦索を伸び易いものにする「剛性低下式操縦索」を採用、では初期型から昇降舵に用いられた 九試中型陸上攻撃機(甲案型) 八試特偵を基にして尾翼胴体を再設計し操縦席が正副並列式に改められ、銃座と魚雷・爆弾搭載装置が搭載された陸攻型。 甲案・乙案ともに社内名称は「カ-15」。 偵察席が操縦席後方にある。 1、2、5、6号機は91式水冷600馬力を装備し、3、4号機は三菱「」二型空冷680馬力を装備している。 プロペラはNW116木製4翅固定ピッチ。 6機生産。 九試中型陸上攻撃機(丙案型) 偵察員席が操縦席より前に配置され、機首に透明銃座を設けた。 甲案に比べ機首が短縮され、操縦席の風防は盛り上がった形になっている。 7~10号機・12~21号機の発動機は「金星」二型を装備し、プロペラはNW126木製4翅固定ピッチ。 11号機は修理の際に発動機を「金星」三型を換装し、プロペラも金属製3翅可変ピッチとされた。 15機生産。 九六式陸上攻撃機一一型(G3M1) 甲案型を採用した量産型。 発動機は金星三型でカウルフラップが追加された。 三翅可変ピッチプロペラ装備。 後方視界向上のため、胴体上部と操縦席風防が丸みを持つ断面形状に変更された。 34機生産。 九六式陸上攻撃機二一型(G3M2) 発動機を「金星」四二型に換装しプロペラ直径を3. 20mに変更したもの。 343機生産。 整備兵に見送られつつ離陸する二三型 「金星」五一型装備の最終生産型で全機で生産された。 発動機の強化に伴い燃料搭載量も5,182リットルに増加された。 412機生産。 諸元 [ ] 制式名称 八試特殊偵察機 (エンジン換装前) 九六式陸上攻撃機一一型 九六式陸上攻撃二一型 九六式陸上攻撃二三型 機体略号 G1M1 G3M1 G3M2 G3M3 全幅 25. 00 m 全長 15. 83 m 16. 45 m 全高(水平) 4. 532 m 3. 685 m 自重 4,775 kg 4,770 kg 4,965 kg 5,243 kg 全備重量 7,003 kg 7,642 kg 7,778 kg 8,000 kg 発動機 九一式(離昇650馬力) 金星三型(離昇910馬力) 金星四二型(離昇1,075馬力) 金星五一型(離昇1,300馬力) 最大速度 265. 7mm旋回機銃2挺(機首・後方・八試中攻時) 7. 7mm旋回機銃3挺(前上方・後ろ上方・後ろ下方) 7. 7mm旋回機銃3挺(胴体中央部上方・側方) 20mm旋回機銃1挺(胴体後部上面) 乗員 5名 7名 輸送機型 [ ] (昭和14年)に九六式陸攻二一型を元に燃料・滑油タンクの増設と武装の削減、機内に8~10人分の座席を備える客室設置などの改造を行った機体を、海軍では 九六式陸上輸送機として採用、同様の改造は一一型に対しても実施され、後年には落下傘部隊用の特殊輸送機へ改造したものも登場した。 九六式陸上輸送機は民間でも 三菱式双発輸送機としてや各新聞社で輸送や連絡に用いられた。 これらの中には世界一周飛行を行ったニッポン号など、日本から各国への長距離飛行に供されたものがあった。 九六式陸上輸送機一一型(L3Y1) 九六式陸上攻撃機一一型、同二一型から改造。 発動機は金星四二型ないし四五型を標準とした。 九六式陸上輸送機二一型(L3Y2) 客室内部を落下傘部隊用に改造、胴体下面には装備品の梱包を搭載可能とした機体。 三菱式双発輸送機 武装を全廃、軍用型から一部の艤装を変更して乗客定員4~8人の旅客機、もしくは貨物輸送機としたもの。 長距離飛行を行った三菱式双発輸送機の例としては以下のようなものがあった。 ニッポン号(J-BACI) 詳細は「」を参照 海軍から払い下げられた二一型を改造の上、(昭和14年)8月~10月に主催で国産航空機による初の世界一周飛行(総飛行距離5万2886km、実飛行時間194時間)を行った。 そよかぜ号(J-BEOA) 1939年(昭和14年)4月にで行われた皇太子と王女の結婚式に際し、日本からの慶祝使節を乗せた往復親善飛行を同年4月9日~4月15日(往路)、5月15日~5月27日(復路)にかけて行い、イラン滞在中には4月25日に上空での空中分列式に参加、またや方面への親善や航路開拓を目的とした追加飛行も検討されたがこれらは実現せず終わった。 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• 杉田親美『三菱海軍戦闘機設計の真実 : 曽根嘉年技師の秘蔵レポート』国書刊行会、2019年。。 p83—85• 『日本航空機一〇〇選』、P145-146• 『世界の傑作機 No. 91 九六式陸上攻撃機』、P17、P32-33 参考文献 [ ]• 『日本航空機一〇〇選』(野沢正著、秋田書店、1972年)• 『日本航空機総集 三菱編』(出版共同社、1981年 改訂新版)• 『世界の傑作機 No. 91 九六式陸上攻撃機』(文林堂、2002年)• Ref. A06031065600「写真週報61号」 1939年4月19日)「そよかぜはイランへ」• Ref. B10074779000 標題:7.日本、「イラン」親善飛行ニ関スル件(そよかぜ号)/分割1• Ref. B10074779100 標題:7.日本、「イラン」親善飛行ニ関スル件(そよかぜ号)/分割2 関連項目 [ ]• 基地内に中攻隊の記念碑がある。

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一式陸上攻撃機

壱式陸攻

一式陸攻を見学に山梨県へ行ってきました。 ここ、河口湖自動車博物館は世界で唯一、現存する一式陸上攻撃機(本物)が 見学できる場所です。 現在、胴体と尾翼の修復まで終わり 残りは主翼のみとなりました。 格納庫の隅に展示してあります。 一式陸攻は「中攻」とも呼ばれ、と並んで 先の大戦の主戦力となりました。 それにしても、 75年も前にこんな大きな飛行機を2400機以上も製造した 日本は凄い。 それらを必死に支えた国民の底力に敬意と 感謝を表する次第であります。 河口湖自動車博物館飛行館へ 河口湖自動車博物館の別館「飛行館」は8月のみ営業開館し 見学できる。 それ以外の期間はレストア作業に専念しているようだ。 8月もおわりに差し掛かった頃、出かけたが、午前中の開館直後にも かかわらず、多くの人が訪れていた。 いきなりだが、入口に掲げてある撮影禁止の注意書き。 ケータイ(携帯)でのみ撮影が許可されている。 三脚、自撮り棒は もちろん、一眼レフ・コンパクトデジカメに関わらず、一切のカメラは持ち込み 禁止。 i-padも禁止。 なぜデジカメは禁止で携帯だけOKなのか? こういう理由らしい。 館長さんだって本来こんな注意書きしたくないだろうに、 携帯だけでも撮影できるなら有難い!自分は充分であります。 私は 実物の質感をこの目で見に来たので写真はオマケであります。 まずは機首の風防から見てみよう。 この写真ではわかりにくいが、風防の透明度が高いので 風防越しに内部が細部までよく見える。 とても興味深い。 内部に入れる見学企画があれば、喜んで参加したいのだが これだけでも満足。 風防に使われている。 アクリルは当時、最先端の樹脂素材だった。 爆撃手の席は よく見える。 写真は写り込みがあるが、実際は触れられる距離にあり 細部まで非常に緻密に復元されている。 爆撃の照準を行う際、眼下がよく見えるように、 床はアクリルの透明張りだ。 特にこの展示機「一式陸攻二二型」の風防は一一型より 窓が多くなっており 良く視界が確保されている。 一式陸攻の水平爆撃 一式陸攻は雷撃と爆撃が可能だが、 爆撃(水平爆撃)の場合、敵陣上空へ到達すると 翼も触れんばかりの爆撃編隊を組み、先頭の一番機より 爆撃する。 これを合図に、後続の機が続く。 よって 一番機に最も優れた爆撃手が搭乗する。 単機では命中しない爆撃も、このような複数編隊による 網を形成することにより、いずれかの命中が期待された。 戦争初期には爆撃専門・専科の搭乗員育成プカリキュラム(特修科練習生)を 卒業した熟練の爆撃手が存在したため、命中率は非常に高かった。 戦争後期にはそうした熟練の搭乗員が多く戦死した。 地上爆撃の場合は高度をあがれるだけ上がって 7000メートル程度。 地上目標は動かないから優秀な爆撃種が 一番機に乗っていればそれでよかった。 問題は艦船の爆撃である。 敵艦に爆弾を投下する際は徹甲弾を用いて 3000-4000メートルで行われた。 これは対空砲火を避ける以外に 敵艦船の装甲を貫くために最も適した高度とされた。 これより低い1000-2000メートルでは艦船のアーマーを 突き抜けず、爆弾が跳ね返って表面で爆発してしまいダメージを 与えられない。 戦闘行動中の艦船に爆弾を命中させるのは至難である。 戦艦や空母など巨大な船は舵を切ってから曲がり始めるまで 3分もかかるため、命中しやすかったが、巡洋艦や駆逐艦は すぐに進路を変更できるため、進路を予測しなくてはならない。 こればかりは運であった。 優秀な爆撃手ともなると敵艦の ウエーキ(航跡)のでぐあいで面舵になるか取舵になるか 見極めたという。 一式陸攻の雷撃 一式陸攻の最も最初の活躍といえば イギリス戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルスの レパルスの撃沈が有名である。 雷撃は水面スレスレの20メートルから1トンの魚雷を投下し 大凡30度の角度で入水。 この方法が魚雷が真っ直ぐに進む。 敵戦闘機も超低空では照準できず、後ろから近付いても 20ミリ機銃があるのでボカンとやられるだけで手が出せない。 理想的な高度とされた。 ところが実戦ではプロペラが海面を叩くほどの 超低空で飛行した。 これは敵艦の高角砲が仰角プラス9度まで しか下がらないという先入観から、超低空で接近すれば 敵の弾は当たらないという考えであった。 それで敵艦に突っ込んで行って 魚雷を投下すればあとは逃げるだけなのだが、訓練では 回避行動を取ったが、実戦では腹を見せると撃たれることがわかった。 そこで、雷撃を済ませたら全速力で一直線に敵艦の上空を突っ切る 戦法に切り替えたのである。 結果的にこのほうが被弾率は少ない。 しかし回避行動もせず敵艦の真上を突っ切るのだから、その度胸たるや 並大抵でないし、被弾せずに済むか、こればかりは運でしか かわせない。 プリンス・オブ・ウェールスでは 腰まで水に浸かりながら懸命に高角砲を撃つ敵兵の顔が見える。 さすがは伝統のロイヤルネイビー。 敵ながらあっぱれと思ったそうである。 その後、ニューギニアに進出し、連日のように 連合軍基地への爆撃、艦船への雷撃を繰り返すようになると 一式陸攻の消耗は激しくなった。 高い位置にあり、操縦席の様子や計器盤までは見えないが、 全体の配置などはよくわかる。 全て復元が終了した暁には ステップなどを備えて、操縦席が見えるように工夫してほしいと願う。 一式陸攻は原則7人乗り(搭乗員概要) 主操縦士と副操縦士の二人が横並びに座る。 主操縦士が右の席、副操縦士が左の席。 戦中の 日本の飛行機だからそういう並び。 一式陸攻は原則、7人乗りである。 ・主操縦士 ・副操縦士 ・搭発員(搭乗整備員、現在の航空機関士。 機銃兼任) ・射爆員(爆撃・雷撃手。 操縦員兼任の場合あり。 機銃兼任) ・主偵察員(航法士、機銃を兼任) ・副偵察員(機銃を兼任) ・電信員(機銃を兼任) 電信、偵察は兼任するケースが多い。 大戦初期においては 7人全員が、操縦、電信、偵察など全てを一通りこなすことが出来た。 これに編隊の指揮官や同乗者が加わると 8名~10名になる場合、また、戦争末期で 副操縦士が不在で5名で飛行するケースもあった。 一式の搭乗員が機内でどんなことをしていたのか? よろしければ以下もご覧ください。 (一式陸攻の後継で新型の銀河は、これらの仕事の効率化を図り 兼任できるようになって、搭乗員数も3名となっている) 主操縦士が機長を務めると思われがちだが、必ずしもそうではない。 後席に座る偵察員のほうが経験を積んでいたり、階級の関係などもあり そちらが機長となっている場合もある。 これは、二人乗りの艦上爆撃機や三人乗りの艦上攻撃機なども同じで 真珠湾攻撃で九七艦攻に乗っていたある機長(偵察員)によれば 「操縦員は操縦に専念してればいい。 後席の偵察員が見張りや 航法、色んな仕事をして指示を出す方が何倍も大変だった」と 語っている。 これを、ぜひとも上から覗けるようになってほしい。 内装色は三菱系内装色だが、実は一式陸攻の内装色は 諸説あって、ジュラルミン地剥き出し、または防錆塗装の青色だったとも 色々な説がある。 機体の開口・乗降部は操縦席上と日の丸に設けられたハッチのみである。 入口のハッチがある。 誰がなんと言おうと、美しい。 鮮やかな日の丸に感激する。 格納庫の中で最も兎角 目を引くのだ。 白い縁取りがまたそれを際立たせている。 一式陸攻は大きいので、感激はなおのことだ。 この日の丸の鮮やかさが、一度は戦争に負けた日本が復興し 主権を取り戻し、あらゆる形で再生をとげてきた、私は サンライズに思える。 一式陸攻の生存率 一応、搭乗員全員が落下傘を背負っているものの 一式陸攻の任務は 敵陣へ攻め入ることが殆どの為、 脱出せず、そのまま自爆、7名全員が未帰還となる ケースがほとんどであった。 一式陸攻は、敵艦、敵陣に絶対命中を狙う為 一旦爆撃、雷撃進路に乗ると、動かない。 敵機に補足された場合、機銃で応戦するか、 護衛のゼロ戦に守ってもらうくらいしか生き延びる道はないのである。 とにかく、回避行動はとれない。 戦後、我々がゼロ戦などの、戦闘機の生存者に講演などを 聞く機会はあるが、この中攻で生き残った者は非常に少なく 滅多にお目にかかる機会はない。 幸運中の幸運が重なり 生存した者を除いて、一式陸攻の搭乗員は多くが 終戦までに戦死している。 前方は図面に基づいて 復元された。 電動の20ミリ銃塔。 敵機と遭遇した場合、機銃の扱いは通信士が兼任する。 敵戦闘機に捕捉された場合、 通信士は「敵機見ユ」「敵機ト交戦中」を打電すると、すぐさま機銃座に 飛んで行って機銃に取りつき、戦闘を開始するのである。 実際にこれと同様の位置およびグラデーション塗装が施されて いたのかは謎から、様々な文献や資料から想像するしかない。 復元機はの機体である。 第761海軍航空隊は大宮島(グアム)・サイパン・テニアン・ ペリリュー・ヤップなどを拠点に活躍した部隊で 一式陸攻を主戦力に据えたほか、銀河や彗星などを保持した。 最終的にはマリアナ沖海戦(あ号作戦)で ペリリュー島から連日、マリアナへ出撃、そのほとんどは未帰還となり消耗。 航空機を失った地上員(整備員等)は応急陸戦隊となって ペリリュー島玉砕戦に参加。 中川州男大佐とともに 玉砕した。 土田喜代一氏は第761海軍航空隊の 地上見張り員だった。 復元が完了してしまえばこの部分は見られない。 貴重である。 ゼロ戦同様 主翼は超々ジュラルミンを桁(けた/主翼の軸となるもっとも重要な部分)に アルミ合金が貼ってある。 一式陸攻といえば、航続距離を増やすため、インテグラルタンクを採用した。 このため防御力に乏しく、ワンショットライターと呼ばれたと 言われているが、ちょっと待ってほしい。 ここで「防弾をおろそかにし、命を粗末にするから 日本は戦争に負けたんだ」などと言うのはおかしい。 それは我々が戦後に後出しだから言えることで決して 現代の物差しで語ってはならない。 当時とは価値観が全然違うのだ。 防御というものは、サムライ的考えで卑怯と考えられていた。 当時、攻撃こそ最大の防御だと考えられていたし。 アメリカと戦争してみて はじめてそれが不利なこととわかったのだ。 館是なのか、天声人語(朝日新聞の社説)が館内の目立つところに 掲示されていた。 何はともあれ、戦時中の兵器をこうして忠実に 復元してくれる後世の為に最も重要であるし、ありがたい。 桜花は母機である一式陸攻二四型丁に吊り下げられ、戦域まで飛行し 切り離された後は、単機、ロケット推進で敵艦に突っ込む特殊攻撃機だ。 私はかつて、この桜花生存者の話も聞いたことがある。 私はブラックユウモアでもBAKABOMBでもないと思うが。 桜花は桜花だ。 一式陸攻を見学したところでゼロ戦の見学に移る。 ここは日本で唯一を展示しているところでもある。 関連記事 骨格も展示されている。 骨格が見られるのも全国でここだけ。 ゼロ戦のデザイン段階から理解できる。 後ろはのゼロ戦。 みんな地味だからと素通りしていたが、これこそ展示の真骨頂。 資料としての価値は最高に高いのだが。 写真ではわかりにくいから ぜひ足を運んでみてください。 隼の後ろには戦意高揚のため 印刷されたポスターが展示されている。 こういったものも非常に貴重。 まさか南郷少佐にお目にかかれるとは思わなかった。 これは独名DB-601こと海軍名アツタ、陸軍名ハ40 「彗星」「飛燕」「晴嵐」「南山」に搭載された国産唯一の液冷エンジン。 細部までオーバーホールされたように綺麗で、これ一つだけでも 充分に見る価値がある。 後ろにあるのがこのエンジンに搭載された 過給器(スーパーチャージャー)だ。 関連記事 このほかには中島の最高傑作「誉」エンジンが新品のような形で 保存されれている。 誉エンジンは素晴らしい。 誉エンジンを 搭載した機体はいずれも優秀だ。 「紫電改」に「彩雲」、「流星」「銀河」などである。 機体は細部までよく観察できるようになっている。 あまりにも近いので機体をゴンゴン叩いているオッサンがいたが 頼むからやめてください。 そういうことをするから制約が 増えてしまうんですってば。 オレオ式の脚。 うーむ・・・。 75年前とは思えないほど良い仕事してる。 まさに芸術作品だ。 海軍機に多く見られる特徴だ。 本来、アルミ合金やジュラルミンは腐食しにくいのだが それでも腐ることは腐る。 白っぽくなったり、赤っぽくなっているのが それだ。 可動部は腐食を防止するために腐食防止塗料が塗られた。 後年「青竹色」と言われるようになったが、それは戦後の呼び方で 当時はそんな呼び方は存在しなかった。 写真ではコントラストが少し強く出てしまっていているが、実際はもっと 薄い色だ。 工業従事者なら誰でも知っている「青タック」をやや薄めて ジュラルミン地に吹き付けたようなイメージだ。 すなわち ブルーメタリックとは全くことなる、透明度が高い、ジュラルミン地が 空けた青色と説明すればわかるだろうか。 航空自衛隊の黎明期を支えたF-86。 歴史の勉強ならびに工業芸術鑑賞を終え、見学終了し、外へ出てきた。 どれも素晴らしかった。 また来ようと思う。 カメラには決して収まらない素晴らしい世界がある。 一式陸攻はこの後、主翼を取り付け完成するが 展示スペースが確保できず探しているそうだ。 来年にはぜひとも展示スペースを新設して堂々の一式陸攻を見たい。 記事の内容が参考になりましたらクリックをお願いします! 読者の方々のクリックによって当サイトは維持されています よく拝見しております。 一式陸攻についてラバウル基地に勤務していた美馬氏(航行士)にお聞きした話があります。 印象に残ったのは、「爆撃のときは全員搭乗するが、雷撃のときは飛行に必要な最低限のクルーで飛びます。 機銃担当は載せません」 わたし、「ラバウルからガタルカナルへは千キロもあり、また損耗率も高かったなかで、よくご無事でしたね」 美馬氏「昭和16年、12月8日午後、偵察のため台湾の高雄からマニラ湾のほうへ飛びました。 高雄に戻ってくるともうすっかり暗闇で、飛行場が見つかりません。 そこでサーチライトの照射を依頼して、なんとか着陸。 機外へ出ると上官にぶん殴られました、ははは。 」 この12月上旬、パラオを訪問します。 それまで丁寧に貴方の記事を読み漁るつもりです。 昨年は旅順、今年の春には私の叔父が戦死したサイパンを訪問しました。 ご英霊に感謝感謝です。 投稿: 平瀬英司.

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