シャルル・ミシェル。 新EU大統領にベルギーのミシェル氏就任…「橋渡しをする」 : 国際 : ニュース : 読売新聞オンライン

シャルル・ミシェル

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移動: , ド・レペはフランスの神父で、世界で最初にろう学校を開き、手話を使った教育を始めた人物である。 正式な名はシャルル=ミシェル・ド・レペで、一般にはド・レペ神父として尊敬され、彼の名を冠した通りがパリやヴェルサイユにみられる。 ド・レペは強い宗教的情熱をもち、社会的、精神的に苦しんでいる庶民のために献身的に尽力していた47歳の頃、宗教的用事で知人の家を訪問して、初めてろうあの姉妹にめぐり合った。 その出会いをきっかけに、彼はろうあ教育を試みようと決意したと伝えられている。 ド・レペと同時代のヨーロッパ各国にはろうあ者への教育を試みた人がかなりいたが、それらのほとんどは教育方法や金銭的な行き詰まりのため失敗した。 また、その中にはろうあ教育の方法を自らの優位性や利益の確保のために特定の人のみに伝えようとする人も多くいた。 しかし、ド・レペはろうあ者の教育のために自分の収入と財産の大部分を注ぎ込んで、死ぬまで教育を続けたということだけでなく、教育方法も惜しみなく公開し、ヨーロッパの各国にろうあ学校の設立を勧めた。 これは彼の偉大な功績だが、もう一つの偉大さが彼にはある。 それはろう者はろう者としての生き方を持つべきであるという思想である。 彼はろう者を教える人はろう者であるべきであると唱えたが、それほどろう者への思いやりが深い人でもあった。 [] 生い立ち ド・レペの誕生とその家系 1712年11月24日、フランスではルイ14世が栄華を誇っていた時代、ド・レペは父シャルル=フランソワ・レペ、母フランソワーズ=マルグリット・ヴァリニョン4番目の子としてヴェルサイユで生まれた。 レペ家は裕福なブルジョワ家庭で、父シャルルは後に宮廷建築家となり、母フランソワーズは有力な建築請負業者の娘であった。 ド・レペは生まれた2日後に洗礼を受け、名付け親には母方の叔父、ミシェル・ヴァリニョンがなり、洗礼名は父シャルルと名付け親ミシェルからもらって、シャルル=ミシェルと名づけられた。 パリへの転居と学生時代 1715年にルイ14世が亡くなって、レペ家の生活は変化を余儀なくされた。 多くの人がヴェルサイユを去り、レペ家も20年ごろ引き払い、祖父の代から住んでいたパリに戻った。 ド・レペは8歳頃から学校に通うようになった。 もちろん、当時学校に通えるのは恵まれた家庭の子どもたちだけであった。 ド・レペが入った学校は「4ヵ国学院」という17世紀に創立の新しい学校であった。 そこでド・レペは貴族的な教育を受け、中等教育の前期過程を終え、二年間の後期過程に進んだ。 ド・レペは後期過程で哲学をはじめ論理学、倫理学、自然科学などを勉強した後、1730年、パリ大学法学部に入学した。 大学に入学した翌年、ド・レペはジャンセニストとして神に仕えようと決心し、剃髪して聖職者となった。 しかし、ド・レペはローマ教皇アレクサンデル7世が1657年に出した信仰宣誓文には署名しなかった。 この信仰宣誓文はジャンセニストでないことを誓うもので、王命により信仰宣誓文に署名しない聖職者は職を解かれることになっていた。 ジャンセニストの神父であることを願ったので、ド・レペは署名を拒否したのである。 こうした事情もあって実際に教会での仕事に就くこともなく、そのまま大学での学生生活を続けた。 その間、フランス法と「ローマ法大全」を研究して、1733年5月、法学士の資格を取得し、パリ大学を修了した。 [] ろう教育への道 ろうあの姉妹との出会い ド・レペとろうあの姉妹との出会いについては、公園の散歩中ににわか雨に見舞われ、建物の入り口で雨宿りをしている時に、2人の姉妹が現れたとされているが、出会いについてはいくつかの異なる説があり、残された資料も存在しないためあくまで推測の域は超えない。 ただし、ド・レペが姉妹に会ったのをきっかけにろう教育を始めたということに関しては、ド・レペ自身も認めているので、間違いない事実である。 後継者のシカールを始め、パリろうあ学校の教師だったべビアンやベルティエなどもこれを確認している。 唯一はっきりしているのは、ド・レペが教育用に使っていた六冊の手書きのノートから、1763年には授業が行われていたという事実である。 したがって、出会いはそれより前ということになる。 ろうあの姉妹の教育をしていたサン=ジュリアン修道院のヴァナン神父は、キリスト教教義普及会という修道会のサン・ジュリアン修道院に所属していた。 この修道会は、特に子どもや職人を対象に教義の普及を目指し、版画を使ってろうあの子どもたちの教育も行われていた。 しかし、1759年の9月19日にヴァナン神父が亡くなってから、2人の姉妹の面倒をみるものがいなくなり、しばらくの間そのままになっていた。 そこで、ド・レペは彼らの面倒をみることが自分の天命だと考えたのである。 彼がそう心の中で思った背景には理由があり、もともと、彼は聖職者として正式なミサ(聖祭:父なる神にイエス・キリストの体と血を捧げる儀式)をすることを禁止されていた。 そこで、ミサを終えた人々に、教会の善意で非公式に聖書を読み聞かせ、そこに書かれた歴史を説明し、説教していた。 ただし、彼が禁止されているのは聞こえる人に対してだけで、聞こえない人に対しては除外されると彼は考えていた。 もし、自分が言葉以外で、聞こえない人に神の教えを説くことができれば、それは許されるはずだと彼は自分なりの結論に達した。 こうして彼のろう教育への第一歩が始まったのである。 [] 手話法による教育の試み ろうあの姉妹の教育を始めようとしても、ド・レペは何から始めたらよいのかすぐにはわからなかった。 そこできっかけになったのが、ろうあの姉妹が身振りでコミュニケーションをとる姿であった。 それに、ド・レペが聖職者としてギリシャ語やラテン語を学び、語学にたけた、いわばコミュニケーションの専門家で、通訳者でもあったことがプラスになった。 また、彼は当時広まりつつあった新しい思想、すなわち啓蒙思想にも関心をもち、出たばかりの「百科全書」も全て読んだ。 さらに、哲学、宗教、言語、法律、文学、医学、科学、教育とあらゆる分野にも目を通していた。 ド・レペはそうしたなかから言語に関する書物を探しだし、ろうあに関する知識を得た。 そして、ド・レペはまず、身振り言語、すなわち手話を一定の法則に従わせ、次にフランス語の体系に対応させることにした。 そうすれば、フランス語と手話との間で共通性が生まれ、お互い容易に理解できるようになり、その結果、教育効果を高めることができると彼は考えたのである。 [] ろう教育の展開とルイ16世の約束 ド・レペが過去のろう教育の先駆者たちと決定的に違っていたのは、初めから裕福な家庭の個人の教授でなく、貧富を問わず不特定の多数のろうあ児を対象に考えていたことであった。 つまり、すべての人を等しく対象にする現在の公教育の概念に通ずるものである。 確かに、彼の「世界最初のろうあ学校」は、彼の住まいのサロン(居間)であって、外観からはおよそ学校といえる代物ではなかったかもしれない。 しかし、大切なのは外観ではなくその中身、すわち学校として認められるかどうかは教育の成果にかかっているのである。 ド・レペもそのことは十分承知で、授業が軌道に乗ると、彼はそれをいかに社会的に認知されるかを模索し始めた。 その結果、彼は授業を多くの人に見せ、その有効性を理解してもらおうと思いついたのである。 生徒の兄弟親のみならず、教育関係者、行政当局、政府高官、宗教関係、そして資金援助のもっとも期待できる資産家などを招き、その面前でろう教育の可能性、有効性を認識させられれば、ゆくゆくは正式な学校と認められ、経済的援助も受けられると考えたのである。 ルイ16世はド・レペの学校をどうするかの検討を国王顧問会議にはかった。 顧問会議は審議の末、1778年、ド・レペが取り組んできた教育を高く評価し、その施設を恒久的に国家の保護下に置き、同時に教育にあたる教師を教師を養成すべきであると具申した。 その結果、国王はセレスチン修道会の建物(修道院)に学校を移転し、その資産の一部を学校の運営費や生徒の養育費にあてるという裁決を下した。 さらに、それに追認する2番目の裁決では、ド・レペが私的に始めた学校が、教育施設として国家によって正式に認知されたことを意味していた。 [] 死と再生 ド・レペの死 ド・レペは、晩年痛風を病み、関節が痛く、思うように歩けず、安楽椅子にかけていることが多くなった。 革命が起こった頃には、ほとんどベッドに横になったままで、歴史的な事件を目撃することもなかった。 1789年の12月23日、聖イブに捧げられた日も、彼はベッドに横たわっていた。 少なくてもこの年の夏以降、彼は永遠の眠りが近づいていることを感じていた。 そして、かけつけてきた教え子、仲間の神父、友人らに見守られて静かに息を引き取った。 78歳だった。 国立パリろうあ学校の誕生 ド・レペ死後、彼の学校は面倒をみる人もなく、また運営資金も欠いて、授業は行われず事実上閉校状態に陥っていた。 後継者となったシカールは、授業の再開をはかる一方、公立化を進めるのに、国民議会に資金援助とセレスチン修道会の施設(修道院)をろうあ学校にあてるという1778年の国王裁決の実施を求めた。 そして、翌1791年7月になって、国立ろうあ学校に関する布告が出され、ド・レペの学校は国立のろうあ学校として認可された。 そして、2ヶ月後の9月にアユイが創設したパリの盲学校とともにその建物に入り、国立盲ろうあ学校として発足した。 しかし、同じ神父でもアユイとシカールの仲はよくなかった。 結局、1794年にろうあ学校は盲学校と別れ、サン=マグロワール神学校に移った。 こうしてド・レペの念願だった学校の恒久化が実現し、以後多くのろうあ児がここで学ぶことになった。 参考文献 世界で最初のろう学校創設者ド・レペ 中野善達 赤津政之 (著) ド・レペの生涯 ベザギュ=ドルリュイ著 伊藤政雄監修 赤津政之訳.

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安倍総理とミシェル次期欧州理事会議長(ベルギー王国首相)との会談|外務省

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1 9月25日午前9時28分(日本時間25日午後10時28分)から約35分間,第74回国連総会出席のためニューヨークを訪問中の安倍晋三内閣総理大臣は,シャルル・ミシェル次期欧州理事会議長(ベルギー王国首相)(H. Charles Michel, President-elect of the European Council, Prime Minister of the Kingdom of Belgium と会談を行ったところ,概要は以下のとおりです。 2 冒頭,安倍総理から,をうれしく思うと述べ,次期欧州理事会議長への選出に祝意を表しました。 また,安倍総理は,EUは,自由,民主主義,人権,法の支配といった普遍的価値を共有する我が国の重要なパートナーであり,ミシェル次期議長とも を一層発展させるべく緊密に連携していきたいと述べました。 これに対し,ミシェル次期議長からは,安倍総理と再会できうれしい,祝意に感謝する,日ベルギー関係だけでなく,日EU間の共通の課題について協力を引き続き一層深化させていきたい旨の発言がありました。 3 日EU関係について,安倍総理から,は順調に運用されており,一層の貿易投資の拡大につなげたい,また,に基づく協力は今回の「欧州連結性フォーラム」を始め着実に進展しており,こうした協力を共に広げていきたい旨述べました。 これに対し,ミシェル次期議長からは,次期欧州理事会議長として優先的に取り組む課題に関し,,及びを含む対外政策につき説明があり,民主主義や法の支配といった価値観を共有する日本と協力していきたい旨述べました。 また,安倍総理から日本産食品等の輸入規制の更なる緩和に向けたEUの取組を歓迎した上で,早期撤廃実現に向けた協力を要請しました。 4 について,安倍総理から,全ての大量破壊兵器及びあらゆる射程の弾道ミサイルのCVIDの実現が必要であり,そのためにの履行が重要であると述べ,また,の早期解決に向けた理解と協力を求めたところ,ミシェル次期議長から理解が示されました。 5 日ベルギー関係に関し,両首脳は,皇室・王室間の絆が二国間の友好関係の基礎であることを確認し,幅広い分野で両国関係を発展させることで一致しました。

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シェルティーの親子 ミシェル&シャルちゃん

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スポンサーリンク ベルギーのシャルル・ミシェル首相はどんな人? プロフィール• 名前:シャルル・ミシェル Charles Michel• 1999年にベルギーの代議院議員に当選すると、翌2000年に25歳でワロン地域政府の内務大臣に就任し、ベルギー史上最年少の大臣になりました。 2011年に改革運動の党首に就任したミシェル氏は、2014年に38歳の若さでベルギーの首相に当選。 ミシェル首相の弟も政治家です。 マクロン大統領とミシェル首相は誕生日が同じみたいです 2歳差。 ポテト&マヨネーズ事件 2014年10月にベルギーの首相になったミシェル氏が日本でニュースになったのは、同年12月のポテト&マヨネーズ事件。 ミシェル首相の出身地でもあるベルギー南部のナミュールで演説中、 フライドポテトとマヨネーズをかけられました。 — TVA nouvelles tvanouvelles ミシェル首相を攻撃したのは女性権利団体FEMENの元メンバーで、政府の緊縮政策への抗議だということです。 最近では、 ミシェル首相がマラソン大会の号砲で耳を負傷したというニュースが日本でも報じられているので、大事に至らないことを祈ります。 スポンサーリンク ミシェル首相の妻 パートナー や子供は? ベルギーのミシェル首相には、数年来のパートナーであるアメリさんがいます。 私生活について多くは語らないミシェル首相ですが、2人は正式に結婚はしていないと言われています。 仏メディアの報道によると、アメリさんの誕生日はミシェル首相と同じで、年齢は34歳だそうです。 まとめ• ベルギーのミシェル首相は、38歳で首相に就任• ポテトとマヨネーズをかけられたことがあり、メガネがトレードマーク• 現在のパートナーはアメリさん、子供は2人いる スポンサーリンク•

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