フランシスコ ザビエル。 フランシスコ・ザビエルが遠い日本にやって来たのはなぜ?|日刊ゲンダイDIGITAL

フランシスコ・ザビエル年表まとめ!伝えたものはどんなこと?

フランシスコ ザビエル

恐らく誰もがどこかで一度は見たことのあるフランシスコ=ザビエルの肖像。 ザビエルは日本にカトリックを布教した人でしたが、どこの国の人で、そしてなぜわざわざ日本にまで来たのでしょうか? これを考える手掛かりが、実は今年の2月に実施された大学入試問題で出題されています。 その一部をご紹介しましょう。 ここはザビエルが創設に関わったイエズス会が母体となった大学です。 その世界史の入試問題で、ちょうどザビエルが取り上げられました。 そこでは次のような史料文が提示されました。 【史料A】「今から3年ほど前のことになろうか、このお方(ザビエル)は、マラッカでアンジロウという名の日本人に出会い、「知識欲の旺盛な民」のいる日本で宣教することを決心した。 その日本滞在中、庶民が支配者に従順なことをみるにつけ、支配者から許されれば一気に宣教が進むにちがいないと考え、苦労してミヤコ(京都)まで出向いた。 しかし、帝(みかど)にはそのような力はなく、日本の文化と伝統によってはじき返されてしまった。 …わたしにはぼんやりとしか理解できないが、このお方を取り巻く世界は大きく動いていて、それがこのお方の行動の背景をなしているのかもしれない。 (一部抜粋)」 また、史料文に続く設問として、文中の傍線部では、〈「このお方を取り巻く世界」の動きについて触れられている。 その動きとは、具体的にどのようなものであったか。 以下の用語をすべて使いつつ、200字程度で答えなさい。 ……【用語】イスラーム教 国家事業 宗教改革 大航海時代〉と提示されていました。 さて、なんと答えたらよいでしょうか? 宗教戦争と通商ルート ザビエルは、1506年にスペインのバスク地方にあるナバラ王国の貴族として生まれました。 15世紀までスペインやポルトガルは、国土回復運動(レコンキスタ)という軍事行動を行って、イスラーム教の勢力と戦い、イベリア半島におけるキリスト教意識は高揚していました。 さらに国家事業として新航路の開拓もなされ、アメリカ大陸やアジアへの進出も進んでいたのです。 しかし、この頃、ドイツにおいてルターが宗教改革を始め、ヨーロッパではプロテスタント(ルター派、カルヴァン派)とカトリックとの宗教戦争も勃発します。 宗教改革と対抗宗教改革図のように、ヨーロッパの中央部から北部にかけて、プロテスタントの勢力が拡大。 カトリックは多くの信者を失っていました。 このような時代の中、ザビエルはイグナティウス=デ=ロヨラらと共に、イエズス会を結成しました。 イエズスとはイエスのことです。 天文学・数学・工学・土木建築などの科学技術を身に付けた宣教師を世界各地に派遣して、カトリック勢力の回復と拡大を図ろうとしました。 また、このような動きは、大航海時代を背景としたポルトガルやスペインによる世界的な通商活動と連携しながら展開しました。 ザビエル渡航図を見てみると、当時のポルトガルの交易ルートとぴったり重なることに気づかされます。 しかし、史料に見られる通り、日本では戦乱による混乱が続き、帝(みかど)(天皇)の権威は地に落ちていて、ザビエルの布教は思うようにいきませんでした。 では、日本を離れてマラッカに戻ったザビエルはその後どうしたのでしょうか? 彼の考えを、再び上智大学の入試問題で取り上げられた史料文から見てみましょう。 【史料B】「もともとこのお方(ザビエル)自身、ポルトガル商人らを通じて中国という国について耳にしていたが、日本滞在の経験から、中国大陸でキリスト教を広めることこそ、日本人の改宗の鍵になると実感したらしい。 日本の支配者層や知識人の間では、世界で最も進んでいるのは中国であり、その文化を受容することがみずからの発展につながると思われていたからだ。 (一部抜粋)」 実現しなかった中国布教 ザビエルは1552年に中国での布教を目指します。 日本でのカトリック布教を進める一環としてとらえていたことが分かります。 しかし、ザビエルに残された時間はあまりに少な過ぎました。 中国での布教許可が下りぬまま、ザビエルは中国大陸を望む上川島で病に倒れ、そのまま帰らぬ人となりました。 中国への布教という試みは、同じイエズス会士であるマテオ=リッチらによって進められることになります。 ザビエルの遺体はのちに墓から掘り起こされ、マラッカを経由してインドのゴアに移されました。 ローマ教皇から聖人に列せられたザビエルの遺体は、それ自体が崇拝の対象とされ、現在10年に一度、ミイラ化した遺体が公開されています。 また、ザビエルの霊験にあずかろうとした信者らによって、遺体はいくつかのパーツに分けられ、イタリア、ポルトガル、マカオそしてインドに分散して保存されて現在に至っています。

次の

キリスト教 伝来の立役者【フランシスコザビエル】来日のエピソードや死因について調べてみました

フランシスコ ザビエル

Contents• フランシスコ・ザビエルの生涯年表まとめ! スポンサーリンク キリスト教を世界へ~イエズス会の設立~ ザビエルはスペインとフランスにまたがるバスク地方というところで生まれたんだ。 スペイン人と誤解されがちなんだけど、彼は独自の文化や文字を持つ バスク人という民族なんだ。 ザビエルはバスク人たちの王国の貴族として生まれます。 しかし、彼が幼いころに王国はスペインへと併合されてしまいました。 スペインは当時、ヨーロッパで最も強い力を持っている国の1つだったんだ。 スペインとの長年の戦争によって、住んでいた城は破壊され、さらにはストレスによって父は死んでしまった。 このようにザビエルは壮絶な幼少期を過ごし、この体験から自身は軍人になることを嫌い、パリの大学へ留学し哲学を学ぶこととなります。 兄弟たちはザビエルを軍人にしたかったようなんだけどね。 そして、彼は教授の職につくわけなんだけ、 そんなある日、運命的な出会いを果たします。 元は勇敢な騎士で、現在はキリスト教の宣教師をしていた ロヨラという人物だ。 彼との出会いにより、キリスト教の教えにのめりこんでいくザビエル。 幼い時のつらい体験も関係していたんだろうね。 キリスト教に救われた彼は、この教えを世界中の人々にも知ってほしいと考えた。 そして教授の職を捨て、ロヨラや他の仲間たちとともにイエズス会を設立し、 世界中にキリスト教を広める旅へと出発したんだ。 1人の日本人との出会い~日本へキリスト教を伝えよう~ 世界中へキリスト教を広めようと心に誓ったザビエル。 その布教活動は順風満帆というわけにはいきませんでした。 インドのゴアというところでヒンドゥー教からの反発にあいます。 しかし、それでも彼の決心は固く、歩みを止めることなく布教活動を進めていきます。 すると、そこである1人の日本人と出会った。 彼の名は ヤジロー ヤジローは日本で人を殺してしまい日本から逃げてきたが、今は罪を深く反省し救いを求めてキリスト教に入信したいと涙ながらに語ります。 ザビエルはこのヤジローの姿に深く感動して、ヤジローだけでなく 日本にいる人々にも救いの手を差し伸べたいと決意したんだ。 一方、そのころの日本は応仁の乱という大規模な戦乱の後、戦ばかりの戦国時代へと突入し、国も人々の心も荒れ果てていた頃でした。 そのため、何とか救いをもたらしてあげたいと思ったことでしょう。 そこへザビエルの乗った船が薩摩へと到着。 薩摩の大名である島津氏から布教の許可をもらったザビエルは、さっそくキリスト教の布教活動を始めたんだ。 でも、 薩摩にいた仏教の僧侶たちがこれに猛反発! なぜ、そんなに薩摩の僧侶たちが反発したのか。 そもそもは言葉の壁から生じる誤解が原因の1つだった。 ヤジローはザビエルたちのことをインドから来た偉いお坊さまだと説明していた。 インド=仏教発祥の地 仏教の開祖ブッタはインド生まれ だから、薩摩の僧侶たちは本場から来た尊いお坊さんと思い込み、ものすごく歓迎したんだ。 でも、なんとなく話がかみ合わない。 そして決定的となったのが、恋愛について。 仏教の僧侶は女性との恋愛は禁止。 でもその代り男性との恋愛はなんとOKだった。 これに驚いたのがザビエル。 キリスト教は男同士の恋愛なんてもってのほか。 絶対ダメ!って薩摩の僧侶にも言ったもんだから、ようやく薩摩の僧侶たちも宗教が違うことに気づいて、 この異教徒め!っと追い出したってわけだ。 薩摩を追い出されたザビエルは長崎や山口についてそこで活動を始めます。 そして日本全土に布教せんと、天皇や将軍に許可をもらいに京へ。 でも、京は長年の戦乱で荒れ果て、天皇も将軍とも会うことができなかったんだ。 ザビエルはショックを受けながらももう一度山口に戻り、大名だった大内氏に眼鏡や時計・オルガンなどの贈り物をして正式にキリスト教を認めてもらったんだ。 そして廃寺となっていたお寺を与えられ、そこをキリスト教の寺院として本拠地としたんだ。 戦乱続きで荒んでいた人々にとって 「神を信じれば救われる」という教えは浸透しやすかったんだね。 寺院には連日連夜たくさんの人が訪れ、ザビエルの話に熱心に耳を傾けていたそうだ。 山口での布教活動も軌道に乗り、信者も600人ほどにまで増えていった。 ザビエルも知識欲が強く、熱心に話を聞いてくれる日本人が大好きになり、ものすごく熱心にキリスト教を教えていったんだ。 スポンサーリンク アジアへもっとキリスト教を!~中国での布教を夢見ての死~ 日本での布教活動も2年が経ち、ザビエルはいったんインドへ帰ることになった。 日本全土にキリスト教を広めるためには、人も物資も全然足りない。 もう少し体制を整えてから出直してこようと考えたんだね。 それにやっぱり気候も言葉も違うところで暮らしていくのも体力的に辛かったようだ。 こうしてザビエルは4人の日本人を連れ、アジアの布教活動の拠点としていたインドのゴアへ帰っていった。 でも、その帰りの船の中で 今なら中国に入国できるかもしれないという情報を得たんだ。 当時、アジアで最も影響力がある国はやはり中国だったし、ザビエルもゆくゆくは優れた国である中国にキリスト教を広めたいと思っていたんだ。 しかし、1つ問題があった。 中国は外国船の入国を禁止していて、入国はおろか商人たちの個人的な貿易さえも厳しく取り締まっていたんだ。 でも今、その体制が揺らいでいるという。 今なら入国できるかもしれない。 それに中国でキリスト教が受け入れられたら、中国から文化などで大きな影響を受けている日本でももっと信仰が広がっていくかっも知れない。 全てにおいて今がチャンス! ザビエルは急ぎゴアへと戻り、宣教師も物資も整えていざ!中国へ!と中国に向けて船を出発させた。 しかし、当時の船旅はまさに命がけ。 途中、二度に渡り船が座礁したり、ペストという恐ろしい病が流行してしまったり。 でもその困難にもめげず、ようやく上川島という中国領の島にたどり着いた。 ここで中国人の商人たちに本土に渡るために協力してほしいと頼んだんだけど、なかなか思うようにことは進まなかった。 実は中国の外国人禁止令はまだまだ効力を発揮中で、商人たちはみな外国人を乗せていることがばれたら死刑になると断固拒否したんだ。 それでもザビエルは粘り強く交渉を続けたんだけど、長年の無理がたたってついに病に倒れてしまった。 日に日に弱っていくザビエル。 それでもか細い声で主であるイエスや聖母マリアに布教活動が上手くいくように願い続けていたそうだよ。 でも、ついにそのまま上川島で息を引き取ってしまったんだ。 享年46歳。 遺体は現地で埋葬されたんだけど、掘り起こされてマラッカ、その後ゴアに送られ、いずれの地でも聖職者や市民までも参列した盛大な葬儀が行われたんだ。 現在も遺体はゴアにある世界遺産であるボン=ジェス協会に安置されていて、10年ごとに遺体の公開が行われているよ。 ちなみに次の公開は2024年だ。 ザビエルについての雑学 髪型のウソ! 引用: ザビエルの肖像画を見たことあるかな? 頭のてっぺんの髪をそり落としていて、周りはふさふさ。 いわゆるカッパのような髪型で描かれているんだけど、実はアレ 間違いなんだ。 あの髪型はトンスラと言ってキリスト教の宣教師の正式な髪型なんだけど、ザビエルたちにはその習慣がなかったみたいなんだ。 あの肖像画はザビエルの死後80年経った1619年以降に日本人によって描かれたもの。 つまりその当時日本にいた宣教師たちをモデルにして描かれていたため頭もトンスラで描かれてしまった。 本当のザビエルは髪の毛ふさふさのかなりのイケメンだったみたい。 ヨーロッパで描かれたザビエル像はみんなふさふさなんだって。 cbcj. catholic. 鉄砲はザビエルが薩摩に着く6年前に日本の種子島にポルトガル人によって伝えられている。 ザビエルが来日するころには、 日本人たちによって高性能な鉄砲が独自に造られるようになっていたんだ。 ザビエルも手土産として鉄砲を持ってきたんだけど、その性能は日本製のより劣っていて日本人たちは喜ばなかったみたい。 それよりも眼鏡や時計などが大変珍しく、 特に 眼鏡はザビエルによって初めて日本に伝えられてかなり重宝されたんだ。 ザビエルの名言 遠路はるばる日本にやって来て心から日本人を救おうとしていたザビエル。 そんな彼は日本人に対して数々の名言を残している。 少し紹介しよう。 社会の勉強が苦手だ! とにかく覚えられない。 参考書を読んでいても頭に入ってこないんだよ! こんな悩みを抱えている方も多いのではないでしょうか。 それは理解しているんだけど… 山の名前、国の名前、偉人の名前… 参考書を眺めていても、想像力が働かなくて ただの文字としてしか頭に入ってきません。 これでは、ただの暗記であって 知識にはなっていないのです。 にもかかわらず、ほとんどの社会の参考書は 大事なポイントが文字でまとめてあるばかり。 社会が苦手な人にとっては、マジ苦痛ですよねw と、まぁ 参考書を眺めてばかりで 一向に理解が深まらなかった私は 社会の学習を半ば諦めていました。 しかし ちょっと学習する方向性を変えてみました。 すると! 楽しいくらいに理解が深まるようになってきました。 参考書では学ぶことができなかった 深い部分までの理解、そして知識のつながりが 頭の中にすっと入ってくるようになったのです。 理解が深まってくると、学ぶ意欲も高まり どんどんと積極的に社会を学ぶようになりました。 こうなってくると、参考書に書いてあった 今まではただの文字としてしか認識できなかった情報も サクサクと理解できるようになってきました。 こちらのスタディサプリという学習コンテンツを利用して 社会の授業を聴くことにしました。 > プロの社会講師が授業をしているので 話が面白い!! 雑学的な感じで、いろんな知識を話してくれるので どんどんと興味がわいてきて 知識欲が深まってきます。

次の

聖フランシスコ・ザビエル

フランシスコ ザビエル

Sponsored Links 日本にキリスト教を伝えた人物として有名なイエズス会の宣教師・フランシスコザビエル。 彼の遺体はミイラとなって現在も保管されています。 そんな彼の遺体の中でも有名なのが「奇跡」の右手です。 何が「奇跡」なのでしょうか。 また、どこで見られるのでしょうか。 ミイラになった理由 ザビエルは1549年、日本でキリスト教を布教するために来日しました。 しかし、その活動の中で、日本全土で布教するためには、日本の文化に大きな影響を与えている中国での布教活動が不可欠と考えるようになります。 その後、1552年9月中国の上川島に到着したザビエルは病を発症。 到着から3カ月ほどで死去してしまいました。 ザビエルの死を看取った中国人のアントニオらはその遺体をインドのゴアに船では工房とします。 しかしそのままではダメということで、少しでも早く遺体を腐敗させて遺骨にするために遺体の入った棺に石灰を入れたのです。 しかし、遺体はいつまでたっても腐らず、ミイラとなってしまいました。 それはともかく、埋葬から30年後に掘り起こされた際、その遺体は全く腐敗していなかったそうです。 現在はフランスの聖ギルダート修道院に安置されていますが、本当にきれいな遺体は、信心深くなくても奇跡を信じたくなってしまうほどです。 しかしながら、ザビエルのミイラはまさに「ミイラ」の姿をしていますので、「不朽体」とは呼べないのではないかと思います。 それに、9月の暑い最中に、乾燥した石灰を棺に詰め、海岸に置いておいたら当然腐敗せずに乾燥が進み、ミイラになるでしょう。 ザビエルの右手に奇跡が! 不朽体ではない!と言い切りたいところですが、一つ不朽体を疑ってしまう奇跡が起こります。 1614年、ローマのイエズス会総長の命令で右腕下膊が切断された際、鮮血がほとばしったというのです。 1614年といえば、ザビエルの死から60年以上が経過しています。 乾燥しきっていればその血も同様のはず。 体の一部からの出血は不朽体の特徴でもあり、やはりザビエルは聖人に選ばれ、不朽体となった!とも考えられるのではないでしょうか。 このことが直接の理由かはわかりませんが、1622年ザビエルは教皇グレゴリウス15世により聖人に列せられたのです。

次の