ヨルシカ思想犯考察。 盗作 (ヨルシカのアルバム)

盗作 (ヨルシカのアルバム)

ヨルシカ思想犯考察

相変わらずヨルシカばかり聞いて生きているワタクシ42歳だ。 最高だね。 何度聞いても最高だよ。 ただ、僕の悪い癖で、聞きすぎると突如として飽きるというアーティスト症候群 今 があるので、多少おびえながら聞きまくっているのだよ。 で、そんな中ニューアルバムより「思想犯」が解禁!!! 最新の「春ひさぎ」を除けば、ここのところの猫をかぶる関連の楽曲は、ヨルシカ独特のな感じがぐっと抑えられてメジャー感が強い感じがしていた。 聞きやすい分、彼らの「刺さる」感じがちょっと抑えられている感じもして、ちょっと残念な部分もあって。 僕にとって、彼らの「」さ、というのは、一般的な意味合いとは少し違うかもしれないのだけど…、彼らの楽曲はとてもメロディが強くて、suisさんの声もとても強い。 繊細すぎるほど繊細だけどとても強い。 それゆえ、楽曲全体のフォルムがどこか歪で、だからこそ「刺さる」んだと思う。 それは、メジャーシーンとは一線を画すものだと僕は思うので、それを「」と表現しました で、この曲はその歪さが一気に戻っている。 春ひさぎもそうだったのだけど、あの曲はそもそも今までの「ヨルシカ」らしさを感じさせない曲だったので、根本的に別という印象。 今回の曲はイントロから「来たぜ!ヨルシカだぜ!!」という感じだからこそそう感じるのだろう。 が!!が!!!! この曲は明らかに今までと大きく違う。 そもそもsuisさんの声がとても低い。 春ひさぎも低かったけど、今回は別人じゃないかというくらい低い。 この方はどれだけの表現力を持っているのだろうか。 僕のsuisさん表現力王楽曲は「憂一乗」なのだけど、それとは全く違う方向の歌声。 恐ろしい。 本当に希有なボーだと思う。 そして、演奏も確かに今までと似た印象はあるけれども、最初っからギターの音が違うし、今までギターを配していたであろう箇所に違う音色が置かれたりしていて、手触りが大きく変わっている。 何と言うか、とてもざらっとした手触りで、砂塵のような、煙たい、うさんくさいような世界の空気がとても強く漂っている。 気がする!なんせまだ全体像はわからないので…。 とにかく、これはもうエイミーとエルマの物語ではないんだろう どこかでリンクするにせよ。 その世界の全体像を感じるのはもうすぐだ。 楽しみー!!.

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【ヨルシカ】「盗作」に爆弾魔が収録されている理由を考察|れど|note

ヨルシカ思想犯考察

つまり、ヨルシカの『思想犯』には元ネタがあるということです。 タイトルと歌詞のオマージュ先は同一のものではありません。 タイトルと歌詞の結びつきを考察する前に、それぞれのオマージュ先とその内容を明らかにしていきましょう。 まずタイトルの『思想犯』とは、イギリスの作家であるジョージ・オーウェルの小説『1984』からの引用です。 『1984』は1948年に執筆され翌年に出版されたディストピア小説です。 全体主義国家によって分割統治された近未来を舞台としており、監視社会の恐怖を描いた当時の世界情勢を危惧する内容となっています。 つまり、これが楽曲タイトル『思想犯』に込められた意味となるのです。 尾崎放哉と「思想犯」の歌詞 次に歌詞がオマージュされた元ネタを確認しましょう。 この楽曲の歌詞は、大正時代の俳人である尾崎放哉の俳句と彼の人生をオマージュしています。 しかし、彼が高い評価を受ける俳人になるまでには険しい道のりがありました。 彼は東京帝国大学を卒業後、エリートとして社会に出ますが、人間関係や自身の酒癖の悪さに悩み、職を転々とします。 会社に適応出来ず、妻に離婚され、病にも犯され、社会で生きていくことは不可能だと悟った時、彼の中に残ったのは俳句だけでした。 社会から逸脱した深い孤独は彼に苦しみを与えましたが、同時に世を忍ぶ無常感が俳句の才能を冴え渡らせ、俳人として飛躍的に成長するに至りました。 彼は一生を通し多くの人が持たない感情や考えを覚え、人とは違った生き方を選んだ。 では、実際に『思想犯』の歌詞を見ていきましょう。 「詩を書いていた」からわかるように、彼の人生をオマージュし、現代版にアップデートしたものでしょう。 ただし「人を呪うのが心地良い」とありますが、彼が実際にこのような物騒なことを考えていたわけではなく、刺激的な人物像を作り上げた結果の歌詞だと思われます。 「包丁を研いでる」という歌詞は彼の俳句からの引用ですが、その意味は大きく異なります。 この歌詞の文脈から考えると「包丁を研いでる」とは、ニュースで報道されるような暗い事件の準備を示唆しているように見えます。 対して、彼の俳句には危うい意味はありません。 『層雲雑吟』と題された未発表句稿集の6番目に当たる句稿の「木槿(ムクゲ)の葉のかげで包丁といでいる」からの引用です。 彼がどんな気持ちをこの句に込めたのかは不明ですが、この一節は日常の風景として描かれているので、歌詞中のような意味ではないでしょう。 このことから『思想犯』の歌詞は、彼の俳句を引用はしているものの、句の意味はあまり捉えずに字面だけを借りているようです。 美しい無常感が与える独自性 『思想犯』の歌詞は、尾崎放哉の生涯を独自の視点で解釈したものであり、実際の彼とはズレがあると書きました。 このように、普通に生活をしていた場合には得られない感受性は、彼の俳句が持つ視点と近しいものを感じます。 「烏の歌に茜、この孤独も今音に変わる」 完全な孤独を経験したからこそ、聞こえる音がある。 そう言っているように思える歌詞です。 これに続く詞も、孤独を経験し得た感受性を発揮したような表現ですね。 このように『思想犯』の歌詞には美しい独自性を感じます。 この二つを結びつけたオマージュは秀逸であり、両者が持つ特性を見事に昇華させていると言えるでしょう。

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【ヨルシカ/思想犯】歌詞の意味を徹底解釈!孤独な主人公の”破壊衝動”

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前置き スポンサーリンク ヨルシカの「エルマ」について書こうと思う。 この作品は「だから僕は音楽を辞めた」の続編として作られた一枚である。 関連記事: 「だから僕は音楽を辞めた」と「エルマ」。 対となるコンセプトを持った2作品を通して、一人の青年と一人の女の子の物語が完結するという仕様になっている。 ただし、このアルバムが少しトリッキーなのは、曲順が物語の時系列通りではないということ。 正しい時系列は初回限定盤を購入することで初めてわかるのだ。 また、初回限定盤にはいわゆる歌詞カードだけでなく、時系列ごとに登場人物がどういう思いを持って、行動したのかがわかる手帳が付いてくる。 というか、歌詞カードが手帳になってるんだけどね そのため、楽曲によって生み出された物語を追いたいリスナーは、初回限定版を購入する必要がある。 というわけで、この記事ではその初回限定版を踏まえて作品の感想を書こうと思う。 ぶっちゃけ考察厨みたいなことはしないけれど、多少は「ネタバレ」に踏み込んでしまうかもしれないので、その辺りは注意して読んでもらえたら幸いである。 「エルマ」とはどういう作品なのか? このアルバムの主人公となるエルマは、前作の主人公であるエイミーからの手紙を受け取ったところから物語が始まる。 で、その手紙を受け取ることで、エルマはエイミーが辿ったルートをなぞるようにして旅を始める。 また、なぞるという構造はアルバム自体にも反映されており、「藍二乗」と「憂一乗」、「八月、某、月灯り」と「夕凪、某、花惑い」など、「エルマ」に収録されている曲はそれぞれ前作と対になっている。 各楽曲がどういうアンサーをしているのかを細かく見ていくことで、エルマという人物像や二人の関係性が浮かび上がるようになっているのだ。 で、手帳のロジックや、この物語の考察をここから書いていこうかなーと最初は思っていたんだけど、ぶっちゃけこの物語の結末自体は「ノーチラス」のMVにきちんと描かれているし、それ以上も以下もないよなーと思ってしまったのだ。 構造だけを端的に言ってしまえば、音楽を辞めたエイミーが残したものを受け継ぐようにして、エルマが再び音楽を始める。 それが、この物語の構造だ。 二枚のアルバムと同じように、なぞるようにして動き始めて、結末だけは違う方へ向かっていく。 そういう流れだ。 前作が音楽を辞めるエイミーの物語なのだとしたら、今作は音楽を辞めていたエルマが再び音楽を始める物語である。 そして、それ以上の登場人物の行動原理を掘り下げても、あんまり意味がないように個人的に思ってしまったのだ。 スポンサーリンク 個人的にこのアルバムで思ったこと むしろ、アルバムの物語とか世界観以上に、この作品がすごいなーと思ったのは、この物語の構造のあり方である。 もちろん、このエイミーとエルマの物語って虚構でしかない。 んだけど、その虚構って、限りなく現実に食い込んできているよなーと思ったのだ。 だって、初回限定版の特典である木箱と手帳というギミックが、虚構である二人の物語を現実で再現する一つの表現方法になっているこだ。 しかも極め付けは、この作品をリリースするという構造そのものが虚構を現実化しているというところ。 というのも、この物語の結末は、エイミーが残した作品と歌にエルマが再び息を吹き込み、音楽をつくるというところにある。 つまり、「だから僕は音楽を辞めたんだ」と「エルマ」という二つの作品は、旅を終えたエルマが作った作品集であるという構造を担っているわけだ。 つまり、このアルバムを聴くという行為は、エイミーとエルマの過去の物語を追いかけているとともに、今のエルマと繋がることにもあるわけだ。 つまり、虚構が現実化してしまっているのである。 なぜ、二つのアルバムが女性ボーカルなのかの理由も、なぜ歌詞カードが手書きになのかも、なぜ時系列がバラバラのアルバムになったのかも回収してみせる。 全ては「エルマ」という作品が虚構と現実を繋げたものなのだ。 普通、虚構は虚構、現実は現実という区別を示すが、ヨルシカのこのアルバムでは、どこまでも虚構が現実に食い込んでくるのである。 「エルマ」という物語は一見すると、手帳の最後で終わっているように見えるが、収録されている曲は全て手帳以後の時系列で作られた作品となるわけで、その音には、手帳以後のエルマの姿が描かれていることになるわけである。 なので、極端なことを言えば、「だから僕は音楽は辞めた」でだんだんボーカルが狂ったように感情的に歌うのは、エイミーがいなくなった現実に苦しむからこそこ表現、という捉え方もできるわけだ。 いずれにしても、時系列の構造が他の「物語る」音楽作品のそれとはまったく違うわけだ。 虚構がどこまで現実に関われるか、というアイデアを極限まで高めたという意味で、このアルバムに凄さを感じるのである。 エルマというアルバムの感想のその先 n-bunaはスタンスとして、自分の生い立ちとかバックグラウンドを踏まえたような音楽の聴き方を推奨していない。 作品は作品として閉じたものとして楽しんでほしいと事あるごとに言っているし、ヨルシカが匿名性を維持して作品をリリースしているのは、そういう思想があるからだ。 だからこそ、逆転的に虚構を現実に食い込ませるような、トリッキーなアルバムをリリースできたのだろうなあと思ったりもする。 ところで、今作はそんなヨルシカにしては珍しいことが一つあった。 今作の特設サイトで、一番最後に寄せたコメント。 そこには、このように書かれている。 作品を作品のままで聴くことを望むn-bunaが、わざわざ現実に引き戻す恐れがある中で、発表したこのコメント。 ここでいう亡くなったミュージシャンとは、ヒトリエのフロントマンであり(あえてここは現在形で表記したい)、ボカロのシーンに大きな影響を与えたwowakaのことを指していることは間違いない。 おそらく、ボカロ出身の人間でwowakaをリスペクトしていない人間はいないだろうし、n-bunaも間違いなくその一人だった。 wowakaとn-bunaの関係性は、Twitterのリプでも垣間見られることができるからここでは詳細には書かないけれど、wowakaが認めてくれたからこそn-bunaは「音楽を続けた」ことは言葉として表明している。 「だから僕は音楽を辞めた」がリリースされたのは、4月10日。 wowakaがなくなって2日後のことだった。 おそらくwowakaが亡くなる前から「エルマ」の構想はあったとは思う。 けれど、あまりにもこの2作品を通じて語ること、何よりこの作品の結末とも言える「ノーチラス」が、あまりにもwowakaとの物語にシンクロしているように感じてしまうのだ。 皮肉にもwowakaはエイミーと同じように、有り余る才能を武器に、誰よりも早い速度でクリエイターとして日々を生き抜き、そして、一足早くみんなの元から姿を消してしまった。 本当はこういう読み方は邪道だと思うけれど、どうしても僕はwowakaとエイミーを重ねてしまうのだ。 みんなの創作意欲となるだけを残して、潜水艦に乗って、みんなの居場所から去っていくところを含めて、wowakaに重ねてしまうのだ。 そして、wowakaのあとを追うにして音楽をはじめ、おそらく最初はなぞるように音楽を作り始め、違う結末に向けて歩みを続けるn-bunaにエルマを重ねてしまうのだ。 「ノーチラス」自体は、ヨルシカになって始めた作った歌であるとn-bunaは語っている。 だから、本質的にはwowakaとは関係ない作品ではある。 けれど、虚構が現実に食い込むこの作品が、別の角度で現実に食い込む構造なのもある種の運命のように感じてしまうのだ。 n-bunaというクリエイターの現実と、この二作品の虚構は、複雑な形で混じり合っているように見えてしまうのだ。 おそらく、そういう懸念も十分に想定できる中で、作品は作品のままに閉じたまま受け入れるべきという価値観を持っているはずのn-bunaが、<亡くなったミュージシャンに捧げること>を宣言したのだ。 それだけリスペクトしていたからというのは前提だけど、その言葉も作品を構成する上で重要な言葉のように感じたのだ。 不思議と、どこまでも虚構であるはずのこの物語に、僕は私小説に似た何かを感じてしまったのだ。 まるで、n-bunaが音楽と出会い、人との出会いの中で音楽に対する想いを変えながら、一度はやめようと思った音楽を再びやろうとしているように感じたのだ。 エイミーとエルマの生き様に、n-bunaの奥底にある想いのようなものを、僕は見てしまうのである。 まとめ まあ、穿ったものの見方は置いておこう。 とにかくこのアルバムが凄いのは、明確な構造の上で作品が作られていることであり、その構造が一つや二つではなく、多重的な階層となっており、複雑な組み合わせをしながら美しく描き切ってみせているところにある。 そして、単に虚構として閉じているのではなく、様々なアプローチにより、それは現実にも侵食しているということだ。 エンタメでありながら芸術のような美しさも感じさせるこの作品。 ヨルシカにしか作れないアルバムだと思う。 スポンサーリンク.

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