ポンペイ 逃げ延び た 人。 ポンペイ

【衝撃】ポンペイ遺跡の抱き合う“2人の乙女”、実はゲイカップルだった!! “性に奔放”な古代都市の真実が発覚!(最新研究) (2017年4月24日)

ポンペイ 逃げ延び た 人

ポンペイに関する基礎知識や歴史 ポンペイって何? ポンペイとは、現在のイタリアのナポリ近郊 (イタリア中南部カンパーニア地方のナポリ湾東岸、ベズビオ火山南麓)にあった古代都市。 紀元後(西暦)79年にヴェスヴィオ山が噴火したことで火山灰と火砕流に飲み込まれ、この都市は地中に埋まって消滅してしまいました。 そしてポンペイは現在、古代都市の生活を伝える貴重な 歴史的遺跡として、また、歴史・文化的な観光地として有名です。 ポンペイの始まりから消滅までを駆け足で確認 紀元前8世紀頃に、オスキ人とヒーコ人という二つのグループによって集落が形成されたのが、ポンペイの始まり。 その後、• 紀元前526年• エトルリア人による支配の開始• 紀元前474年• ギリシャと同盟を結ぶことでエトルリア人支配から脱する• 紀元前424年• サムニウム人による支配の開始• 紀元前89年• ローマによって植民都市として征服される• 紀元後79年• ヴェスヴィオ山の噴火によって都市が消滅する といった流れで、一時は商業や観光都市として栄えたポンペイは、最後の日を迎えて消滅してしまったのです。 ポンペイはどのような都市だったのか? 紀元前8世紀にこの地へ人が集まって集落が作られて以降、少しずつ大きな街へと変化していくことで、ポンペイも含めたヴェスヴィオ山とナポリ湾周辺は、 日光浴や景色を楽しみたい 富裕層向けの観光地や保養所のような場所として人気になっていきました。 そして、紀元後1世紀になる頃には、ヴェスヴィオ山から8km程のところにあるポンペイの街は、 ローマの富裕層にとって素晴らしいリゾート地となっていたようです (ローマ帝国に支配されて以降、ポンペイは急速に繁栄していったようで、建物は木造からレンガや石造りへと変わり、闘技場、2つの劇場、寺院、水道管まで整備された)。 当時のポンペイの街には、 ポンペイを消滅させたヴェスヴィオ火山について ポンペイを火砕流によって飲み込んだヴェスヴィオ山は、何万年を掛けて形成されていった 活火山で、その標高は1281m。 現在は噴火していないものの、近代におけるまで度々噴火を繰り返しており、 最も最近の噴火は1944年3月22日に起こっています。 そのため、実は 79年の噴火以前にもヴェスヴィオ火山は幾度か噴火を起こしており、1780年頃に起きた非常に激しい噴火や、79年の噴火に一番近いものであれば 紀元前217年に起こした大噴火があります。 しかし、この地域はとても気持ちがよく日当たりの良い場所なためか、数十年もすれば恐ろしい噴火のことを人々は忘れていってしまうのでしょう。 79年の噴火に関しては、それ以前のおよそ300年もの間、ヴェスヴィオ火山は静かであったため、なおさら人々は近くにそびえ立つ火山の脅威を忘れてしまっていたのです。 実は 62年に2月5日、同地を 巨大地震が襲い、大きな被害をもたらしたのですが、客観的に見れば大噴火の予兆とも取れなくないこの大地震を、再び大きな噴火による災害の警告だと考える人は当時のポンペイにはいませんでした。 それどころか、さらに多くの人がナポリ湾の海岸に集まってきたことで、ポンペイは年々賑やかになっていったのです。 紀元79年にどのようなことが起こったのか? 大地震が起こった17年後の 西暦79年8月24日、ヴェスヴィオ火山は噴火しました。 噴火による爆風で火山灰、軽石、そして岩石の柱と非常に熱い火山ガスが空高く上がり、その光景は遠くは離れた場所からでさえ見えたと言われています。 例えば、ナポリ湾の反対側から噴火を見た当時の文人「 ガイウス・プリニウス・カエキリウス・セクンドゥス(小プリニウス)」は、このヴェスヴィオ火山の噴火を、• 「ありえないぐらいの大きさと珍しい形の雲」 と表現し、「 幹のようなものの上に大きく伸びて、枝のように分かれていった」と松の木に例えています (小プリニウスが表現した噴火形式は今日では「 プリニー式噴火」と呼ばれている)。 そして一昼夜、火山灰や軽石、そして岩石などが降り注ぎ、地域一帯では、人々が呼吸するのが困難になっていき、一部の建物は崩れ落ちました。 そんな状況がずっと続いた後 (噴火してからおよそ12時間後)、ついにポンペイの街を飲み込む 火砕流が発生。 この時に発生した火砕流は、正確には「 火災サージ」と呼ばれ、 火砕流に似ているけど火山ガスの比率が高くて密度が小さいため、高速で薙ぎ払うように流れ、その速度は 時速100kmを超えるほどでした。 一方で最大で16000人が火山灰と溶岩によって生き埋めになったとする説もある。 ポンペイの再発見 1748年に探検家の一団が、古代の遺物を探しにカンパニア州にやって来て発掘を始めるまで、ポンペイはほとんど手付かずの状態でした。 火山灰が防腐剤のような働きをしたこともあり、火山灰の下に眠っていたポンペイの都市は、 2,000年前とほとんど変わらない状態で残っていたのです。 建物はそっくりそのままの状態であり、毎日のように新しい発見が続きました。 中には、当時の市民が食べていたジャムの入った瓶や食パンまで見つかったのです。 また、人々を包んだ火砕流や火山灰がその後すぐに冷やされて固まった結果、中の遺体は溶けたために空洞となる一方、人々の姿や表情がその空洞の中に刻まれており、そこへ石膏を流しこむことで、当時の人々のリアルな姿を再現することに成功しています。 ポンペイが再発見されてから今日まで、ポンペイの発掘はおおよそ3世紀に渡って続けられていますが、学者や観光客は、ポンペイの遺跡や歴史的価値に、未だ魅了され続けているのです。 ポンペイについて抑えておきたい5の豆知識 ポンペイの名前の由来 ポンペイ(Pompeii)という名前は、この地に最初に入ってきて集落を築いたオスキ人の言葉で、 数字の5を表す「pompe」に由来しているとされます。 そのため、歴史学者の推測では、もともと ポンペイは5つの集落から成り立っていたのではないかと考えられているのです。 一方で、ポンペイア(Pompeia)と呼ばれる氏族がこの地へ最初に入植したことが起源だとする説もあります。 ポンペイは変わった形をした街だった ポンペイの街は、先史時代に流れ出た溶岩の上に造られていたため、 街全体としては変則的な形をしていたようです。 また、街の南西部が最も昔に造られたと考えられていますが、いつどのようにして街が拡大していったのかについては、未だに正確なことが分かっていません。 ちなみに、 79年にヴェスヴィオ火山が噴火した時、ポンペイの街は 再建作業の真っ只中にありました。 被害を受けた公共の建物や個人の住宅は再建中であり、何度も修理を繰り返している建物もあったと考えられています。 歴史は繰り返すかもしれない ヴェスヴィオ山は1944年以降、噴火はしていないものの、今もなお活火山であり、 いつまた噴火しても不思議はないと言われます。 特に、 ヴェスヴィオ山は噴火すると非常に大きな爆発 (プリニー式噴火)を起こす火山であり、現在、火口から32km圏内にはおよそ 300万人の人々が住み、活火山近くの人口密度で言えば世界最高。 このような状況をふまえると、もしヴェルヴィオ火山の大噴火が起これば、ナポリを含めて未曾有の大惨事となる可能性があるのです。 最終的には6mも深い地中に埋まった ヴェスヴィオ火山の噴火活動は噴火が始まってからその後、およそ24時間続き、街には溶岩や火山灰が2日間にわたって降り続きました。 噴火が始まってからおよそ1時間後の午後1時または2時頃、火山灰を含んだ煙によって太陽の光はさえぎられ、 1時間に約15cmのペースで火山灰が降り積もっていったのです。 その結果、最終的にポンペイの街の一部は、 地中6m深くも埋まってしまったとされています。 劣化が進み崩壊の危機にあるポンペイ遺跡 火山灰に守られ、都市全体の形がそのまま綺麗に残っていたポンペイ遺跡ですが、再発見されてから3世紀近くになろうとしている中で、発掘された遺跡の一部は雨風にさらされた結果、急激な劣化に見舞われています。 そのため、このままだと歴史的に貴重なポンペイ遺跡はいずれ崩壊してしまうと考えられているのです。 そこでイタリア政府は2014年、同遺跡を維持・修復するための「 グレート・ポンペイ・プロジェクト」を発表。 また、国際的にも保存をするための共同作業が行われています。 ただし、遺跡の状態や直面する問題はそれぞれ異なることが多く、ポンペイを維持・保存していくには、莫大な費用と期間がかかると考えられています。 合わせて読みたい世界雑学記事• 当時のポンペイでは、灰が洪水の如く大地に流れ出し、そして街全体は、「まるで扉が閉められた明かりのない部屋のような暗闇」で包まれたと言います。 そのような大災害に見舞われたポンペイは一方で、ほぼ街全体の形が完全な状態で残り、同時に、建物、工芸品、芸術品など、当時の生活や文化を現在に知らせる貴重な遺産を残してくれています。

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一夜にして消えた街、南イタリアの世界遺産ポンペイ遺跡へタイムスリップ

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[PR] ポンペイの概要• 最盛期には人口が2万人ほど住んでいたとも言われていますが、79年の8月24日にヴェスヴィオ火山(Mount Vesuvius)の噴火によって、街ごと飲み込まれて消滅しました。 世界的にも注目される現在のポンペイはイタリアを代表する観光地の一つであり、ユネスコ世界遺産にも登録されています。 ポンペイを滅ぼした「ヴェスヴィオ火山」• 出典: City of Naples with Mount Vesuvius at sunset by Antonsusi ヴェスヴィオ火山はイタリアのカンパニア州(州都はナポリ)にある山であり、ポンペイを滅ぼした前後にも何度かその噴火によって周辺地域に損害をもたらしています。 イタリアの大衆歌謡『フニクリ・フニクラ(Funiculi Funicula)』はヴェスヴィオ火山のてっぺんを目指す歌ですが、1944年の噴火によって歌に登場する登山電車が破壊されています。 そんなヴェスヴィオ火山ですが、東京ディズニーシーのプロメテウス火山のモデルとしても知られています。 こういったことから、イタリアにとってはポンペイだけでなく、ヴェスヴィオ火山自体も歴史的に重要な存在であることが伺えます。 ポンペイ観光のコツ ポンペイはかつて2万人も住んでいたれっきとした街なので非常に広いです。 博物館に行くと言うよりは街歩きをする感覚で観光に望むと疲れにくいのではと思います。 チェックポイントも84箇所と、やはり見るものが非常に多いので、あらかじめチェックして、狙いを定めて行くとより楽しめると思います。 ポンペイのホームページにあるを見ていただけると、その広さがイメージしやすいかと思います。 今回はポンペイの裏名所として有名な「売春宿(Lupanare)」と「路上の男根(Fascinus)」の2箇所について紹介します!• 写真:がぅちゃん イスラエル 男根(左)、売春宿の壁画(右)• ポンペイへの入場料:大人1人15ユーロ(1,950円) 1. 売春宿(Lupanare)• 出典: ポンペイの売春宿「Lupanare」 ポンペイにはいくつも売春宿があったそうですが、この建物だけはそういった行為を行うための専門の場所としてデザインされたため、ポンペイで最も優れた体制の売春宿とされています。 この売春宿で働いていた女性たちは主に、ギリシャなどにルーツを持つ奴隷でした。 なお、料金は当時のワイン2人前〜8人前の値段だったそうです。 こちらはの39番の位置にあります。 売春宿の中• 写真:がぅちゃん イスラエル 売春宿の中はこのように展示スペースのようになっており、一方通行で進んでいきます。 写真撮影は自由にできますが、フラッシュは禁止なので気をつけてください。 写真:がぅちゃん イスラエル• 写真:がぅちゃん イスラエル まさに性行為が行われていた部屋です。 石でできていますが、当時はマットレスが敷いてあったそうです。 写真:がぅちゃん イスラエル ブラジャーを着用して仕事している売春婦の壁画• 写真:がぅちゃん イスラエル 一番の見所と言ってもいいのがこれらの壁画です。 売春宿での性行為の様子を表している壁画なのです。 女性が胸に着用しているのは当時のブラジャーだそうです。 補足:なぜ男根?• 出典: ローマ神話の神プリアーポスを描いたポンペイの壁画(1世紀) 古代ローマにおいて「男根(Fascinus)」は、聖なるファルスを体現したものと考えられていました。 ファルス(Phallus)は勃起した男根を意味します。 ポンペイには、この路上以外にも、男根を模した創作物がいくつか存在します。 おまけ:お土産• 写真:がぅちゃん イスラエル• 写真:がぅちゃん イスラエル• 写真:がぅちゃん イスラエル ポンペイの入り口周辺には男根グッズを売っている売店が数多く存在します。 ただし公式グッズではないので価格が表示されておらず、購入には交渉が必要なようでした。

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2000年前の白骨死体が発掘されるも、その奇抜すぎる姿にネットがざわつく・・・

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2千年以上前にローマ人の余暇地として繁栄し、最盛期の人口は約2万人に達したといわれるが、西暦79年にヴェスヴィオ火山の大噴火で火山灰が降り続け、さらに火砕流の発生により一瞬にして完全に地中に埋まってしまった悲劇の都市でもある。 肉体が朽ちた後は空洞となって残り、その空洞に石膏を流し込んで成型したポンペイ人の石膏像の数々が、現在博物館で展示されている。 その石膏像はどれも当時の大災害の悲惨さを生々しく我々に訴えかけているが、その中に「ふたりの乙女(Two Maidens)」と呼ばれている、きつく抱き合って最期を遂げた2人の有名な像がある。 両者共に一見華奢で丸みを帯びた体つきだったこともあり、発掘されてから今日まで、かなりの長きにわたって女性同士だと信じられてきたが、最近になりCTスキャンとDNAテストを行った結果、2人は実は男性同士であることが判明したという。 2人の推定年齢は、18歳と20歳前後のようだ。 DNAからはこの2人が血族関係にない、という確かな分析結果が出ているようで、調査した研究者は「無論本当の関係は知る由もないが」 と断りを入れながら、彼らにはなんらかの感情的なつながり……つまり同性愛者であった可能性も否定できない、とコメントしているという。 イタリアのゲイグループにとってはまたとない朗報で、SNSを通していくつもの歓喜の声があがっているようである。 2015年までに専門家らはこの像を含むこのエリアの86体の犠牲者を保存のために石膏化し、より詳しく調査を行おうと試みてきた。 歯や骨の欠片から広範に調査・分析を行った過程で、「ふたりの乙女」についてこれまでの仮定を覆す驚きの事実が判明したかたちになる。 もっとも、古代ローマ時代に大都市として発展したポンペイは性にも非常に奔放であったため、同性愛者も特に珍しい存在ではなかったらしい。 (文=Maria Rosa.

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